ルクソール(エジプト)
古代エジプトの首都として繁栄をきわめたルクソール
タロットカードとのかかわりも深いエジプト文明に、私は大きな興味を抱いてきました。そんな私が、カイロとともに訪れたかった都市が、ルクソールです。カイロからナイル川沿いに600km南になるルクソールは、かつて「テーベ」と呼ばれ、新王国時代(紀元前1570年頃~1090年頃)のエジプトの首都として栄えました。ナイル川をはさんで両岸に古代の王ゆかりの遺跡が多数残り、エジプトを代表する遺跡の街として多くの観光客を集めています。
ルクソールには2つの顔があります。ナイル川の東岸は生者の街と呼ばれ、巨大な神殿があり、今も人々の活気にあふれた暮らしがあります。一方の西岸は死者の街「ネクロポリス」と呼ばれ、荒涼とした岩山がそびえます。人々は、太陽の沈む西方にはあの世があると考え、王や貴族の墓を西岸の山の手に造りました。先のカイロでは、ピラミッドのスケールにまず圧倒されましたが、ここルクソールの遺跡では、そのスケール感もさることながら、私の心により深く訴えかけるものを感じました。
そんなルクソールの街を、西岸、東岸とに分けて紹介します。
ファラオの墓が多数造られた聖なる場所「王家の谷」へ。
ナイル川西岸では、まず「王家の谷」へ。トトメス3世、ラムセス1世、ツタンカーメンら新国王時代のファラオや貴族の墓が、現在までに60ヶ所以上、地上から発見されている場所です。それらの墓のうち、現在、十数ヶ所が公開されています。
ここは、王の墓のありかといっても、白っぽい岩山が連なるまったく殺風景な場所。なぜ、このような奥深い不毛の地に、大切な王の墓が造られたのか?また、地表には何の建造物もないのか?そのわけは、盗掘を避けたためにほかなりません。しかし、ほかの地域の王や貴族の墓同様、この王家の谷の墓も、金銀財宝を狙う盗人たちの侵入を防ぐことは出来ず、ほとんどの墓が略奪を受けてしまいました。そんな中唯一、略奪を免れた墓があります。それが、有名なツタンカーメンの墓です。
ツタンカーメンらの墓のある丘へは、王家の谷の入口から小さなカートに乗って往復します。私は、同行の友人たちとカートに乗って谷の奥へと近づいていきました。すると、前方に見える小高い丘の上に、薄紫色とオレンジの色の高貴なオーラが広がっていました。そのオーラの発する源に、ツタンカーメンの墓はありました。
プラスのエネルギーを感じたツタンカーメンの墓
ツタンンカーメンの墓は、「ここが王の墓所?」と思えるほど、とても小規模なものでした。地表から階段を下りると、前室などを経て、石棺が安置されている玄室へとたどり着きます。ここには、今もなおツタンカーメン王のミイラが安置されています。このよな場所を訪れると私はよく胸が締め付けられるような感覚を覚えるのですが、なぜか、このときは不快な気分にはなりませんでした。頭をなでられているような感覚があり、同時に「ようこそ」と言われているよな、どちらかといえばプラスのエネルギーを感じたのです。
18歳で亡くなったツタンカーメン王。その死因は、暗殺とも、負傷がもとになっての感染死とも言われていています。しかし、私が彼の亡がらを前にして直感したのは、「彼は決して前世に恨みをもっていない」ということです。彼はエジプトを統治する希望に燃えた日々を送り、そして、そのときの気持ちのままに、自らが死んだことにも気づかず、今もここに横たわっている……。
そんな気がしてなりませんでした。
エジプト初の女性ファラオ、ハトシェプスト女王の葬祭殿
ナイル川西岸で見逃せないスポットに、「ハトシェプスト女王の葬祭殿」があります。ハトシェプスト女王は、エジプト初の女性ファラオで、紀元前1500年頃即位しました。女王が、父トトメス1世と自らに捧げて、岩山の崖を背景にした場所に造営したのが、この葬祭殿です。巨大な葬祭殿は、女王の死後の復活の場であるとともに、彼女の業績を後世に伝えるモニュメントでもありました。
葬祭殿の内部の壁や柱には、色彩豊かな壁画やレリーフが残されています。しかし、それらの中で女王の姿を描いた部分は、すべて削り取られてしまっています。これは、ハトシェプスト女王に恨みを持つトトメス3世が、前王であるハトシェプストの肖像を排除したためです。
ルクソールの青い空に私たちが見たもの
そして、葬祭殿を出たとき、おもしろい出来事がありました。青空を見上げると、頭上はるかに高い場所で無数の鳥が舞っていたのです。私は、その鳥たちの姿に、ハヤブサの姿をした天空の神「ホルス」をすぐに連想していました。私や友人たちが空に見とれていると、ガイドが興奮した声で言いました。「長年ガイドをしているが、とても珍しい光景だ。誰かこの一行の仲に、ホルス神に縁のある者がいるのではないか?」友人たちは、一斉に私を指しました。たしかに私は、多種多様なエジプトの神のなかでもホルス神に最もひかれ、長い間ずっとあこがれてきたのです。たんなる偶然の出来事かもしれませんが、このときの出来事は私にとってエジプトとの魂の結びつきを、深く感じさせるものでした。そして、エジプトの王たちが成し遂げようとした世界の調和を、私も占いという活動を通じて追及していきたいという覚悟を新たにしたのでした。私は立ち去りがたい思いを強く感じながら、ルクソールの西岸を後にして、巨大神殿の待つ東岸へと向かいました。
ツタンカーメンの墓が盗掘を免れた理由とは?
エジプトの王様で日本で一番おなじみなのが、ツタンカーメン(紀元前1347年~1338年)。カイロのエジプト考古学博物館にある黄金のマスクはあまりにも有名で、さぞや権勢を誇った存在であったと思われがちだ。しかし、彼はファラオではあったものの、わずか18歳で亡くなったこともあり、権力は低かった。そのため、墓の規模も小さく、かなり内容が「地味」だったことで盗掘を免れたと言われている。それでも、1925年、英国人の素人考古学者ハワード・カーターが、王家の谷でツタンカーメンの墓を発見したときは、まばゆいばかりの黄金製品など3000点もの品々が出現。現在それらは、エジプト考古学博物館の2階の半分を占める。
ちなみに、墓を発掘シタカーターの周辺では、関係者が謎の死を遂げるなど悲劇が次々に起こり、「ファラオの呪い」とささやかれた。しかし、当のカーター自身は健康な人生を送り66歳で亡くなった。
墓の内部には金製品を中心に多数の副葬品があった 。(墓の展示パネルより)
エジプトの王様で日本で一番おなじみなのが、ツタンカーメン(紀元前1347年~1338年)。カイロのエジプト考古学博物館にある黄金のマスクはあまりにも有名で、さぞや権勢を誇った存在であったと思われがちだ。しかし、彼はファラオではあったものの、わずか18歳で亡くなったこともあり、権力は低かった。そのため、墓の規模も小さく、かなり内容が「地味」だったことで盗掘を免れたと言われている。それでも、1925年、英国人の素人考古学者ハワード・カーターが、王家の谷でツタンカーメンの墓を発見したときは、まばゆいばかりの黄金製品など3000点もの品々が出現。現在それらは、エジプト考古学博物館の2階の半分を占める。
ちなみに、墓を発掘シタカーターの周辺では、関係者が謎の死を遂げるなど悲劇が次々に起こり、「ファラオの呪い」とささやかれた。しかし、当のカーター自身は健康な人生を送り66歳で亡くなった。
ツタンカーメン王の墓の発掘当時の写真。この墓を発見したハワード・カーター(1枚目:左側)。
墓の内部には金製品を中心に多数の副葬品があった 。(墓の展示パネルより)
2006年4月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』