ルクソール(エジプト)
古代エジプトの首都として繁栄をきわめたルクソール
タロットカードとのかかわりも深いエジプト文明に、私は大きな興味を抱いてきました。そんな私が、カイロとともに訪れたかった都市が、ルクソールです。カイロからナイル川沿いに600km南になるルクソールは、かつて「テーベ」と呼ばれ、新王国時代(紀元前1570年頃~1090年頃)のエジプトの首都として栄えました。ナイル川をはさんで両岸に古代の王ゆかりの遺跡が多数残り、エジプトを代表する遺跡の街として多くの観光客を集めています。
ルクソールには2つの顔があります。ナイル川の東岸は生者の街と呼ばれ、巨大な神殿があり、今も人々の活気にあふれた暮らしがあります。一方の西岸は死者の街「ネクロポリス」と呼ばれ、荒涼とした岩山がそびえます。人々は、太陽の沈む西方にはあの世があると考え、王や貴族の墓を西岸の山の手に造りました。先のカイロでは、ピラミッドのスケールにまず圧倒されましたが、ここルクソールの遺跡では、そのスケール感もさることながら、私の心により深く訴えかけるものを感じました。
そんなルクソールの街を、西岸、東岸とに分けて紹介します。
ファラオの墓が多数造られた聖なる場所「王家の谷」へ。
ナイル川西岸では、まず「王家の谷」へ。トトメス3世、ラムセス1世、ツタンカーメンら新国王時代のファラオや貴族の墓が、現在までに60ヶ所以上、地上から発見されている場所です。それらの墓のうち、現在、十数ヶ所が公開されています。
ここは、王の墓のありかといっても、白っぽい岩山が連なるまったく殺風景な場所。なぜ、このような奥深い不毛の地に、大切な王の墓が造られたのか?また、地表には何の建造物もないのか?そのわけは、盗掘を避けたためにほかなりません。しかし、ほかの地域の王や貴族の墓同様、この王家の谷の墓も、金銀財宝を狙う盗人たちの侵入を防ぐことは出来ず、ほとんどの墓が略奪を受けてしまいました。そんな中唯一、略奪を免れた墓があります。それが、有名なツタンカーメンの墓です。
ツタンカーメンらの墓のある丘へは、王家の谷の入口から小さなカートに乗って往復します。私は、同行の友人たちとカートに乗って谷の奥へと近づいていきました。すると、前方に見える小高い丘の上に、薄紫色とオレンジの色の高貴なオーラが広がっていました。そのオーラの発する源に、ツタンカーメンの墓はありました。
プラスのエネルギーを感じたツタンカーメンの墓
ツタンンカーメンの墓は、「ここが王の墓所?」と思えるほど、とても小規模なものでした。地表から階段を下りると、前室などを経て、石棺が安置されている玄室へとたどり着きます。ここには、今もなおツタンカーメン王のミイラが安置されています。このよな場所を訪れると私はよく胸が締め付けられるような感覚を覚えるのですが、なぜか、このときは不快な気分にはなりませんでした。頭をなでられているような感覚があり、同時に「ようこそ」と言われているよな、どちらかといえばプラスのエネルギーを感じたのです。
18歳で亡くなったツタンカーメン王。その死因は、暗殺とも、負傷がもとになっての感染死とも言われていています。しかし、私が彼の亡がらを前にして直感したのは、「彼は決して前世に恨みをもっていない」ということです。彼はエジプトを統治する希望に燃えた日々を送り、そして、そのときの気持ちのままに、自らが死んだことにも気づかず、今もここに横たわっている……。
そんな気がしてなりませんでした。
エジプト初の女性ファラオ、ハトシェプスト女王の葬祭殿
ナイル川西岸で見逃せないスポットに、「ハトシェプスト女王の葬祭殿」があります。ハトシェプスト女王は、エジプト初の女性ファラオで、紀元前1500年頃即位しました。女王が、父トトメス1世と自らに捧げて、岩山の崖を背景にした場所に造営したのが、この葬祭殿です。巨大な葬祭殿は、女王の死後の復活の場であるとともに、彼女の業績を後世に伝えるモニュメントでもありました。
葬祭殿の内部の壁や柱には、色彩豊かな壁画やレリーフが残されています。しかし、それらの中で女王の姿を描いた部分は、すべて削り取られてしまっています。これは、ハトシェプスト女王に恨みを持つトトメス3世が、前王であるハトシェプストの肖像を排除したためです。
ルクソールの青い空に私たちが見たもの
そして、葬祭殿を出たとき、おもしろい出来事がありました。青空を見上げると、頭上はるかに高い場所で無数の鳥が舞っていたのです。私は、その鳥たちの姿に、ハヤブサの姿をした天空の神「ホルス」をすぐに連想していました。私や友人たちが空に見とれていると、ガイドが興奮した声で言いました。「長年ガイドをしているが、とても珍しい光景だ。誰かこの一行の仲に、ホルス神に縁のある者がいるのではないか?」友人たちは、一斉に私を指しました。たしかに私は、多種多様なエジプトの神のなかでもホルス神に最もひかれ、長い間ずっとあこがれてきたのです。たんなる偶然の出来事かもしれませんが、このときの出来事は私にとってエジプトとの魂の結びつきを、深く感じさせるものでした。そして、エジプトの王たちが成し遂げようとした世界の調和を、私も占いという活動を通じて追及していきたいという覚悟を新たにしたのでした。私は立ち去りがたい思いを強く感じながら、ルクソールの西岸を後にして、巨大神殿の待つ東岸へと向かいました。
カイロ(エジプト)
タロットによって、エジプトに導かれた私
長年、タロット占いをしてきた私にとって、エジプトは憧れの地であり、また、訪れなくてはならない国でもありました。というのも、タロットとエジプトには深いつながりがあるからです。
18世紀の後半、フランス人牧師アントニオ・クール・ド・ジェブランが、「タロットは、古代エジプトの神の教えを記したものである」という記述を残しました。ジェブランは、タロットの絵柄が、古代エジプト文明の神秘と叡智をシンボリックに表現しているものであるとしました。また、19世紀、イギリスの神秘主義者アレイスター・クローリーは、私も愛用するタロットの名作「トートのタロット」を制作しています。「トート」とは、トキの頭を持つエジプトの智恵の神のことです。そうしたことからタロットをエジプト起源であるとする説もあるほどです。
ギザの町並みの向こうに現れた異空間……
今回のエジプトの旅は、友人数名を誘ってのなごやかなものでした。しかし、私は心の中に密かに緊張感を抱いていましたピラミッドをはじめとする強烈な霊的スポットに立ち入るのですから、そこで感じるエネルギーは尋常なものではないはずです。そして、そのエネルギーは必ずしもプラスのものとは限りません。私はカイロに到着したその瞬間から、邪悪なものを寄付けないよう、一種のバリアを全身に張ったのです。
カイロ滞在の2日目、念願のピラミッド訪問が叶いました。カイロ中心部からバスで三大ピラミッドがあるギザの町へ。40分ほどバスに揺られると、ビルが連なる町並みの向こうに突然、ピラミッドの頭が見えてきました。砂漠の真ん中にあるイメージが強いピラミッドですから、少々意外な気もしました。
しかし、いざピラミッド全体が見える場所まで来ると、その偉容に言葉を失いました。「ここは、異空間である」――それが、最初に感じた印象でした。そこは、周囲とまったく違うエネルギーに満ちていて、淡いブルー、藍色、そしてそれらとは正反対の燃え立つような赤オーラを見ることが出来ました。私は、歩を進めるたびに大きくなる霊的エネルギーを感じながら、ピラミッドの入り口へ近づいていきました。
ピラミッド内部で受けた1つのメッセージ
最大の大きさを誇るクフ王のピラミッドは、高さ約140m、底辺の1辺の長さ約230m。遠くからきれいな四角錐に見えたピラミッドも、近くで見れば、無数の長方形の石の集合体です。そのクフ王のピラミッドの内部に、かつて盗掘用にあけられた穴だった入口から入っていきました。
ピラミッド内部の通路は狭く、息苦しさを覚えました。最初にたどりついた女王の間では、体が上下に引っ張られるような感覚を味わい、さらに大回廊を通ってたどり着いた玄室では、今度は突然一つのメッセージを感じました。「ここはクフ王の墓ではない」積み重なった石の奥のほうから聞こえてくる声は、確かにそう言っていました。そして私は、玄室の一方の壁の奥のほうに、強いパワー発生スポットがあるという感覚を持ちました。
驚きの啓示を受けた1つのメッセージ
実はピラミッド内で、私はもう一つのメッセージを受け取っていました。
それは、「4年以内に2度、この地を再訪しなさい」というもの。そのことを同行のエジプト人ガイドに話すと、彼女はびっくりしていました。というのも、ピラミッド周辺は4、5年のうちに一時的にクローズするという話があるとのこと。クローズの理由は聞きませんでしたが、その後、ピラミッドのそばにあるスフィンクスで、そのヒントになるような発見をしました。
頭は人間、体はライオンというスフィンクスの近くまで来たとき、私は、またしても一つのメッセージを受け取りました。それはなんと、「地下に、ピラミッドと同じものがもう一つ埋まっている」というもの。にわかに信じられない啓示ですが、ひょっとしてそれは真実なのかもしれないと私は思いました。この一帯は、亡くなった人の魂を天に上げていくための強力なパワースポットであり、そのために地上と巨大なしくみが建造された……。私は、そんなふうにも想像しました。
そして、スフィンクスの背後に回りこんだとき、私はあるものを見ました。いや、透視したと言ったほうがいいかも知れません。スフィンクスの足元に空洞が見え、数百メートル離れたメンカウラー王のピラミッドまで延びる一本の地下通路が見えたのです。それは、オレンジ色のまっすぐな道でした。ガイドにそれを告げると、彼女は「一ヶ月前に来た中国のお坊さんが同じ事を言っていましたよ!」と再びびっくり。
私は、4、5年のうちに一帯がクローズされてしまうのは、巨大な地下建造物の調査をするためなのではないか、と理解しました。
ピラミッドを造ったのはエジプト文明ではない!?
さて、私がクフ王のピラミッド内部で感じた、「ここはクフ王の墓ではない」というメッセージは何を意味するのでしょう?クフ王のピラミッドやスフィンクスはおよそ4500年前に建造されたとされています。しかし、それは本当なのでしょうか。
私は、エジプト文明とは別の、もっと古い文明の匂いをこの地で感じました。それは、たとえば「アトランティス文明」。1万2000年ほど前に大西洋にあった大陸に栄えたといわれる王国ですが、アトランティスは当時、破竹の勢いでヨーロッパやアジアに侵略をしていたとも言われています。この謎の古代文明が、ピラミッド建造など、エジプトの地に何らかの影響を及ぼしたことも、まったくないことではないと考えます。
ルクソール(エジプト)
古代エジプトの首都として繁栄をきわめたルクソール
タロットカードとのかかわりも深いエジプト文明に、私は大きな興味を抱いてきました。そんな私が、カイロとともに訪れたかった都市が、ルクソールです。カイロからナイル川沿いに600km南になるルクソールは、かつて「テーベ」と呼ばれ、新王国時代(紀元前1570年頃~1090年頃)のエジプトの首都として栄えました。ナイル川をはさんで両岸に古代の王ゆかりの遺跡が多数残り、エジプトを代表する遺跡の街として多くの観光客を集めています。
ルクソールには2つの顔があります。ナイル川の東岸は生者の街と呼ばれ、巨大な神殿があり、今も人々の活気にあふれた暮らしがあります。一方の西岸は死者の街「ネクロポリス」と呼ばれ、荒涼とした岩山がそびえます。人々は、太陽の沈む西方にはあの世があると考え、王や貴族の墓を西岸の山の手に造りました。先のカイロでは、ピラミッドのスケールにまず圧倒されましたが、ここルクソールの遺跡では、そのスケール感もさることながら、私の心により深く訴えかけるものを感じました。
そんなルクソールの街を、西岸、東岸とに分けて紹介します。
ファラオの墓が多数造られた聖なる場所「王家の谷」へ。
ナイル川西岸では、まず「王家の谷」へ。トトメス3世、ラムセス1世、ツタンカーメンら新国王時代のファラオや貴族の墓が、現在までに60ヶ所以上、地上から発見されている場所です。それらの墓のうち、現在、十数ヶ所が公開されています。
ここは、王の墓のありかといっても、白っぽい岩山が連なるまったく殺風景な場所。なぜ、このような奥深い不毛の地に、大切な王の墓が造られたのか?また、地表には何の建造物もないのか?そのわけは、盗掘を避けたためにほかなりません。しかし、ほかの地域の王や貴族の墓同様、この王家の谷の墓も、金銀財宝を狙う盗人たちの侵入を防ぐことは出来ず、ほとんどの墓が略奪を受けてしまいました。そんな中唯一、略奪を免れた墓があります。それが、有名なツタンカーメンの墓です。
ツタンカーメンらの墓のある丘へは、王家の谷の入口から小さなカートに乗って往復します。私は、同行の友人たちとカートに乗って谷の奥へと近づいていきました。すると、前方に見える小高い丘の上に、薄紫色とオレンジの色の高貴なオーラが広がっていました。そのオーラの発する源に、ツタンカーメンの墓はありました。
プラスのエネルギーを感じたツタンカーメンの墓
ツタンンカーメンの墓は、「ここが王の墓所?」と思えるほど、とても小規模なものでした。地表から階段を下りると、前室などを経て、石棺が安置されている玄室へとたどり着きます。ここには、今もなおツタンカーメン王のミイラが安置されています。このよな場所を訪れると私はよく胸が締め付けられるような感覚を覚えるのですが、なぜか、このときは不快な気分にはなりませんでした。頭をなでられているような感覚があり、同時に「ようこそ」と言われているよな、どちらかといえばプラスのエネルギーを感じたのです。
18歳で亡くなったツタンカーメン王。その死因は、暗殺とも、負傷がもとになっての感染死とも言われていています。しかし、私が彼の亡がらを前にして直感したのは、「彼は決して前世に恨みをもっていない」ということです。彼はエジプトを統治する希望に燃えた日々を送り、そして、そのときの気持ちのままに、自らが死んだことにも気づかず、今もここに横たわっている……。
そんな気がしてなりませんでした。
エジプト初の女性ファラオ、ハトシェプスト女王の葬祭殿
ナイル川西岸で見逃せないスポットに、「ハトシェプスト女王の葬祭殿」があります。ハトシェプスト女王は、エジプト初の女性ファラオで、紀元前1500年頃即位しました。女王が、父トトメス1世と自らに捧げて、岩山の崖を背景にした場所に造営したのが、この葬祭殿です。巨大な葬祭殿は、女王の死後の復活の場であるとともに、彼女の業績を後世に伝えるモニュメントでもありました。
葬祭殿の内部の壁や柱には、色彩豊かな壁画やレリーフが残されています。しかし、それらの中で女王の姿を描いた部分は、すべて削り取られてしまっています。これは、ハトシェプスト女王に恨みを持つトトメス3世が、前王であるハトシェプストの肖像を排除したためです。
ルクソールの青い空に私たちが見たもの
そして、葬祭殿を出たとき、おもしろい出来事がありました。青空を見上げると、頭上はるかに高い場所で無数の鳥が舞っていたのです。私は、その鳥たちの姿に、ハヤブサの姿をした天空の神「ホルス」をすぐに連想していました。私や友人たちが空に見とれていると、ガイドが興奮した声で言いました。「長年ガイドをしているが、とても珍しい光景だ。誰かこの一行の仲に、ホルス神に縁のある者がいるのではないか?」友人たちは、一斉に私を指しました。たしかに私は、多種多様なエジプトの神のなかでもホルス神に最もひかれ、長い間ずっとあこがれてきたのです。たんなる偶然の出来事かもしれませんが、このときの出来事は私にとってエジプトとの魂の結びつきを、深く感じさせるものでした。そして、エジプトの王たちが成し遂げようとした世界の調和を、私も占いという活動を通じて追及していきたいという覚悟を新たにしたのでした。私は立ち去りがたい思いを強く感じながら、ルクソールの西岸を後にして、巨大神殿の待つ東岸へと向かいました。
ツタンカーメンの墓が盗掘を免れた理由とは?
エジプトの王様で日本で一番おなじみなのが、ツタンカーメン(紀元前1347年~1338年)。カイロのエジプト考古学博物館にある黄金のマスクはあまりにも有名で、さぞや権勢を誇った存在であったと思われがちだ。しかし、彼はファラオではあったものの、わずか18歳で亡くなったこともあり、権力は低かった。そのため、墓の規模も小さく、かなり内容が「地味」だったことで盗掘を免れたと言われている。それでも、1925年、英国人の素人考古学者ハワード・カーターが、王家の谷でツタンカーメンの墓を発見したときは、まばゆいばかりの黄金製品など3000点もの品々が出現。現在それらは、エジプト考古学博物館の2階の半分を占める。
ちなみに、墓を発掘シタカーターの周辺では、関係者が謎の死を遂げるなど悲劇が次々に起こり、「ファラオの呪い」とささやかれた。しかし、当のカーター自身は健康な人生を送り66歳で亡くなった。
墓の内部には金製品を中心に多数の副葬品があった 。(墓の展示パネルより)
エジプトの王様で日本で一番おなじみなのが、ツタンカーメン(紀元前1347年~1338年)。カイロのエジプト考古学博物館にある黄金のマスクはあまりにも有名で、さぞや権勢を誇った存在であったと思われがちだ。しかし、彼はファラオではあったものの、わずか18歳で亡くなったこともあり、権力は低かった。そのため、墓の規模も小さく、かなり内容が「地味」だったことで盗掘を免れたと言われている。それでも、1925年、英国人の素人考古学者ハワード・カーターが、王家の谷でツタンカーメンの墓を発見したときは、まばゆいばかりの黄金製品など3000点もの品々が出現。現在それらは、エジプト考古学博物館の2階の半分を占める。
ちなみに、墓を発掘シタカーターの周辺では、関係者が謎の死を遂げるなど悲劇が次々に起こり、「ファラオの呪い」とささやかれた。しかし、当のカーター自身は健康な人生を送り66歳で亡くなった。
ツタンカーメン王の墓の発掘当時の写真。この墓を発見したハワード・カーター(1枚目:左側)。
墓の内部には金製品を中心に多数の副葬品があった 。(墓の展示パネルより)
2006年4月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』
カイロ(エジプト)
タロットによって、エジプトに導かれた私
長年、タロット占いをしてきた私にとって、エジプトは憧れの地であり、また、訪れなくてはならない国でもありました。というのも、タロットとエジプトには深いつながりがあるからです。
18世紀の後半、フランス人牧師アントニオ・クール・ド・ジェブランが、「タロットは、古代エジプトの神の教えを記したものである」という記述を残しました。ジェブランは、タロットの絵柄が、古代エジプト文明の神秘と叡智をシンボリックに表現しているものであるとしました。また、19世紀、イギリスの神秘主義者アレイスター・クローリーは、私も愛用するタロットの名作「トートのタロット」を制作しています。「トート」とは、トキの頭を持つエジプトの智恵の神のことです。そうしたことからタロットをエジプト起源であるとする説もあるほどです。
ギザの町並みの向こうに現れた異空間……
今回のエジプトの旅は、友人数名を誘ってのなごやかなものでした。しかし、私は心の中に密かに緊張感を抱いていましたピラミッドをはじめとする強烈な霊的スポットに立ち入るのですから、そこで感じるエネルギーは尋常なものではないはずです。そして、そのエネルギーは必ずしもプラスのものとは限りません。私はカイロに到着したその瞬間から、邪悪なものを寄付けないよう、一種のバリアを全身に張ったのです。
カイロ滞在の2日目、念願のピラミッド訪問が叶いました。カイロ中心部からバスで三大ピラミッドがあるギザの町へ。40分ほどバスに揺られると、ビルが連なる町並みの向こうに突然、ピラミッドの頭が見えてきました。砂漠の真ん中にあるイメージが強いピラミッドですから、少々意外な気もしました。
しかし、いざピラミッド全体が見える場所まで来ると、その偉容に言葉を失いました。「ここは、異空間である」――それが、最初に感じた印象でした。そこは、周囲とまったく違うエネルギーに満ちていて、淡いブルー、藍色、そしてそれらとは正反対の燃え立つような赤オーラを見ることが出来ました。私は、歩を進めるたびに大きくなる霊的エネルギーを感じながら、ピラミッドの入り口へ近づいていきました。
ピラミッド内部で受けた1つのメッセージ
最大の大きさを誇るクフ王のピラミッドは、高さ約140m、底辺の1辺の長さ約230m。遠くからきれいな四角錐に見えたピラミッドも、近くで見れば、無数の長方形の石の集合体です。そのクフ王のピラミッドの内部に、かつて盗掘用にあけられた穴だった入口から入っていきました。
ピラミッド内部の通路は狭く、息苦しさを覚えました。最初にたどりついた女王の間では、体が上下に引っ張られるような感覚を味わい、さらに大回廊を通ってたどり着いた玄室では、今度は突然一つのメッセージを感じました。「ここはクフ王の墓ではない」積み重なった石の奥のほうから聞こえてくる声は、確かにそう言っていました。そして私は、玄室の一方の壁の奥のほうに、強いパワー発生スポットがあるという感覚を持ちました。
驚きの啓示を受けた1つのメッセージ
実はピラミッド内で、私はもう一つのメッセージを受け取っていました。
それは、「4年以内に2度、この地を再訪しなさい」というもの。そのことを同行のエジプト人ガイドに話すと、彼女はびっくりしていました。というのも、ピラミッド周辺は4、5年のうちに一時的にクローズするという話があるとのこと。クローズの理由は聞きませんでしたが、その後、ピラミッドのそばにあるスフィンクスで、そのヒントになるような発見をしました。
頭は人間、体はライオンというスフィンクスの近くまで来たとき、私は、またしても一つのメッセージを受け取りました。それはなんと、「地下に、ピラミッドと同じものがもう一つ埋まっている」というもの。にわかに信じられない啓示ですが、ひょっとしてそれは真実なのかもしれないと私は思いました。この一帯は、亡くなった人の魂を天に上げていくための強力なパワースポットであり、そのために地上と巨大なしくみが建造された……。私は、そんなふうにも想像しました。
そして、スフィンクスの背後に回りこんだとき、私はあるものを見ました。いや、透視したと言ったほうがいいかも知れません。スフィンクスの足元に空洞が見え、数百メートル離れたメンカウラー王のピラミッドまで延びる一本の地下通路が見えたのです。それは、オレンジ色のまっすぐな道でした。ガイドにそれを告げると、彼女は「一ヶ月前に来た中国のお坊さんが同じ事を言っていましたよ!」と再びびっくり。
私は、4、5年のうちに一帯がクローズされてしまうのは、巨大な地下建造物の調査をするためなのではないか、と理解しました。
ピラミッドを造ったのはエジプト文明ではない!?
さて、私がクフ王のピラミッド内部で感じた、「ここはクフ王の墓ではない」というメッセージは何を意味するのでしょう?クフ王のピラミッドやスフィンクスはおよそ4500年前に建造されたとされています。しかし、それは本当なのでしょうか。
私は、エジプト文明とは別の、もっと古い文明の匂いをこの地で感じました。それは、たとえば「アトランティス文明」。1万2000年ほど前に大西洋にあった大陸に栄えたといわれる王国ですが、アトランティスは当時、破竹の勢いでヨーロッパやアジアに侵略をしていたとも言われています。この謎の古代文明が、ピラミッド建造など、エジプトの地に何らかの影響を及ぼしたことも、まったくないことではないと考えます。
「なぜ?どのようにして?謎に満ちたピラミッド建造
王の墓、日時計、天文台、大洪水に備えたタムカプセル…など、ピラミッド建築の目的には諸説があるが、どの説が正しいのかはわかっていない。しかし、亡くなった王の魂を天上へ送るための装置だったという、古代エジプトの来世観に基づく説は、有力なものとして考えられている。ピラミッドが初期には階段状だったことから見ても、「天への階段」説は真実なのかもしれない。
また、ピラミッドは、その建築法についても多くの謎につつまれている。東西南北を正確に割り出している測量技術、ピラミッドの基底部を水平にする技術、そして何より平均2.5トンもの石を268万個もどのように運び込み、積み上げていったのか…。現代の科学を持ってしても、これらはなかなか解明できていない。
「ピラミッドは宇宙人が造った」―。あまりに謎が深いために、そんな説明に落ち着くのもしかたがないのかもしれない。
王の墓、日時計、天文台、大洪水に備えたタムカプセル…など、ピラミッド建築の目的には諸説があるが、どの説が正しいのかはわかっていない。しかし、亡くなった王の魂を天上へ送るための装置だったという、古代エジプトの来世観に基づく説は、有力なものとして考えられている。ピラミッドが初期には階段状だったことから見ても、「天への階段」説は真実なのかもしれない。
また、ピラミッドは、その建築法についても多くの謎につつまれている。東西南北を正確に割り出している測量技術、ピラミッドの基底部を水平にする技術、そして何より平均2.5トンもの石を268万個もどのように運び込み、積み上げていったのか…。現代の科学を持ってしても、これらはなかなか解明できていない。
「ピラミッドは宇宙人が造った」―。あまりに謎が深いために、そんな説明に落ち着くのもしかたがないのかもしれない。
2006年3月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』