青の洞窟・カプリ島(イタリア)
神秘的な「青の洞窟」が待つ憧れのカプリ島へ
ヨーロッパは、タロットや占星術にかかわりが深いこともあり、これまでたびたび訪れています。なかでもイタリアは、その歴史や文化のすばらしさに惹かれ、何度も足を運んでいます。北はフィレンツェ、ヴェネチア、南はナポリまで、いくつかの都市に行きましたが、それぞれの地域はとても個性豊か。ひとつとして同じ顔の都市がないのは、イタリアがかつて、いくつもの小国家に分かれて覇を競い合っていたためかもしれません。
今回訪れたカプリ島は、イタリア南部、ナポリ沖合いに浮かぶ小さな島です。この島にある有名な「青の洞窟」を、私は一度自分の目で見たいと思っていました。
以前、ボンペイの古代遺跡を見学するためにナポリを訪れたことはありましたが、そのときは時間の関係でカプリ島に渡ることはできませんでした。今回、ついに訪問がかない、とてもうれしい気持ちでした。
セレブたちが滞在するバカンスの島、カプリ
ティレニア海に浮かぶカプリ島は、東京の千代田区の面積と同じくらいの小さな島。深い青緑色をたたえた海と、そこからそそり立つ断崖、そして島の緑……。風光明媚とは、まさにこの島のことを言うのではないかと私には感じられました。
美しい風景と温暖な気候は、古代ローマ帝国の皇帝さえも魅了しました。紀元前1世紀、皇帝アウグストゥスは、この島全体を別荘地として購入。そのあとを継いだ皇帝ティベリウスは、この島に住みついて、半ば隠樓しながら政務を行ったといいます。
現在のカプリ島は、イタリア屈指の高級リゾート。各界の著名人がバカンスを楽しむ場所として知られ、高級ホテルやブティックも島の高台に軒を連ねています。私も例外ではなかったのですが、多くの日本人旅行者は、青の洞窟だけを見るとすぐに帰ってしまいます。しかし、多くのイタリア人セレブたちは、海上に浮かぶこの別天地で、日常を忘れて何日も過ごすそうです。なんともうらやましい話しですね。
エメラルドの海を背景に別荘地が広がる贅沢な風景
ナポリの港から水中翼船に乗った私と友人は、吸い込まれそうなエメラルドグリーンの海を一路カプリ島へ。穏やかな海から立ち上がるオーラも、また美しいエメラルドグリーンの色をしていました。その色に私は、霊感を得るきっかけともなった、18歳の時に突然浴びたエメラルド色のフラッシュを思い出しました。
40分ほどでカプリ島の玄関港、マリーナ・グランデに到着。そこにあふれる日差しの強さはナポリ異常のように感じられました。カプリ島にはアナカプリとカプリの2つの街がありますが、いずれも高台に開けているため、港近くからケーブルカーで街へ向います。カプリ地区に宿をとっていた私たちも、ケーブルカーに乗車。高度を上げるにつれて広がる、白亜の別荘群とヨットを浮かべた美しい海……。なんとも贅沢な風景でした。
ケーブルカーを降りると、目の前の広場には、カフェのパラソルが並び、高級ブランドのショップが軒を連ねています。私たちも広場の一角にあるカフェで食事をしましたが、こうして島の中でいただく食事というのは珍しく、あらためて「遠くまで来たな」という思いがこみあげてきました。
言葉を失うほどの感動体験、青の洞窟
快適なホテルで一夜を過ごした翌日、いよいよこの島のハイライトである青の洞窟へ。青の洞窟は、海に接した洞窟の内部が、光線の加減によって青白く浮かび上がる神秘的な空間。モーターボートで洞窟の近くまで行き、そこから手漕ぎボートに乗り換えて青の洞窟を往復します。一般のボートの漕ぎ手と交渉。いくらか多めにチップを払うことで話しがまとまると、すぐにボートに乗せてくれました。周辺の海にはすでに薄紫のオーラが漂い、これから体験する神秘体験への期待を高めてくれます。
波打ち際に半分隠れた青の洞窟の入口は狭く、くぐる際には頭を下げるほどでした。内部へ入った瞬間、私は息を飲み、言葉をなくしみあした。中には数十メートルの意外なまでに広い空間があり、そこに広がる海が青白く光っています。
「なんて美しいんだろう!」私は心の中で叫びました。体は、まるで宇宙に浮かんでいるような不思議な感覚でした。ボートの漕ぎ手がオールをひとかきすると、小さな波がまるでダイヤモンドのようにきらめき、青の中へと消えていきます。
洞窟の中にいたのは、10分にも満たない短時間でしたが、その中で私は藍色や紫のやさしいオーラを感じ、不思議なまでに癒されていました。
世界中のどこにもない癒しのエネルギーに触れて
一度、この目で見たいと思っていた、青の洞窟。その内部に満ちるオーラのエネルギーは、これまでどこでも感じたことのないものでした。私が世界各地で感じて来たオーラには、愛、憎しみ、権威、敵意などさまざまなエネルギーがこもっていました。しばしばオーラの持つマイナスな気にうちのめされることもあり、そんなとき私は、過去の負の歴史が集積してきたエネルギーの大きさを思うのでした。
しかし、青の洞窟のオーラは、そうしたものとはまったく無縁の存在でした。そこにマイナスな気配は一切なく、かといって愛や好意といった人間臭い感情もありませんでした。洞窟は、ただただ神秘的に青く、静かに“癒し”のエネルギーを漂わせていたのです。おそらくこのことは、人の手が加わらず、純粋に自然の営みだけで洞窟がつくられたことによるのでしょう。
今回のカプリ島滞在は、とても短期間で、その島の魅力を100%体験するまでには至りませんでした。しかし、青の洞窟での神秘体験はかけがえのないものとなりました。またいつの日か、たっぷりと時間をかけてこの島の魅力に触れたい……そう強く思う私でした。
マグダラのマリアの洞窟(フランス)
イエスをめぐるもう一人のマリア、マグダラのマリア
みなさんは、「マグダラのマリア」という名前を聞いたことがありますか?
イエス・キリストの生涯には二人のマリアが関わります。
一人は言うまでもなくイエスを処女受胎によって生んだ聖母マリア。
そしてもう一人が、マグダラのマリアなのです。
ヨーロッパ各地では、カトリック教会などを中心に聖母マリアを古くから讃えてきましたが、その一方で、マグダラのマリアも信仰の対象とされてきました。しかし、その信仰はきわめて少数派であり、限られた地方でのみに受け継がれています。というのも、伝統的にバティカンを頂上とするカトリック教会から、マグダラのマリア信仰は禁じられてきた経緯があるからです。「表のマリア」が聖母マリアだとすれば、「裏のマリア」とも呼ぶべき存在が、マグダラのマリアなのです。
一説によれば、マグダラのマリアはもともと娼婦だったとも言われています。しかし、イエスの導きによって自分の行いを悔い改めたとされます。その後、マリアはイエスに忠実に従い、その寵愛を一身に集めたため、ペテロら12人の信徒からはひどく嫉妬されることになったといいます。
ちなみに、初期のキリスト教会では、マグダラのマリアは信徒の中の筆頭としての扱いを受けていましたが、のちにカトリックは、マリアの存在を無視し、ペテロを第一人者としてあがめるようになりました。
カトリック教会を震撼させた衝撃の“事実”とは……?
絶えずイエスに同行していたマリアは、いよいよイエスが磔刑になるというとき、その姿を見届け、さらに復活したイエスに最初に出会ったとされます。後世、マリアが聖人として扱われるようになった理由も、そのあたりのいきさつにあります。
しかし、マグダラのマリアについての最も重要なエピソードは、そのようなことではありません。
実は「マリアがイエス・キリストの子供を産んだ」という“伝説”があるのです。もし、これが本当であれば、神が人間と交わって子をもうけたということになり、「イエスは神の子」とするカトリック教会の教えは否定され、その権威はもろくも崩れてしまうのです。
マグダラのマリアがイエスの子を身ごもった……。これが真実かどうかは、私にはなんとも言えません。しかし、カトリック教会から迫害されたキリスト教の異端の一派「カタリ派」が密かにマリアを信奉したこと、そして、そのカタリ派の教えが、タロット・カード(マルセイユ・タロット)の成立と深いかかわりがあることは、私に「マグダラのマリアの聖地を訪れたい」という強い気持ちを抱かせたのでした。
前回は、マリアの頭蓋骨だとされる遺物をまつる教会をご紹介しましたが、今回は、迫害の末に南仏にたどり着いたマリアが、隠れ住んだと言われるサント・ボーム山中の聖なる洞窟についてご案内しましょう。
マリアゆかりの聖なる洞窟で過ごした貴重なひととき
美しく晴れ上がった冬の日、私は今回、マルセイユ・タロットのワークショップに参加した一行とともに、サント・ボーム山の麓の町、サン・マクシマン・ラ・サント・ボームを出発し、徒歩で聖なる洞窟をめざしました。
雪の残る山道は険しく1時間におよぶ山道歩きは大変つらいものでした。ようやくのことでたどり着いた、岩山の中腹にある洞窟は、プロヴァンス最大の巡礼地らしく、神聖な雰囲気を漂わせていました。
洞窟内に足を踏み入れると、そこには薄紫、藍色、エメラルド・グリーンなど、ブルー系のオーラが満ちていました。そして、肩のあたりを後ろから引っぱられる感覚がし、金縛りにあったようにその場に動くことができませんでした。やがて、次のような闇からのメッセージが聞こえてきました。「ようこそ。真実の場所へ」―-それは、マリア自身の声だったのでしょうか、私には、その声がとても哀しみに彩られているように感じられました。
洞窟内には、祭壇やマリアの像などが祀られてあり、33年間ここで冥想の日々を送ったというマリアの極限の信仰生活をしのばせました。この洞窟で私は、重苦しいエネルギーを感じ続けていましたが、それはマグダラのマリアが背負った苦しみの大きさによるものだったのかもしれません。
キリストの子を身ごもったマリアは、つらい迫害を受けたといいます。そして、死後もなお、ローマ・カトリック教会によって差別を受けたのです。
サント・ボームの聖なる洞窟は、巡礼者が癒しを受ける場所ではなく、マリアの魂こそが癒しを必要としている場所なのだ……。
そんなことを考えながら、私は厳粛な気持ちで帰りの山道を下っていったのでした。
プロヴァンスで起きた、ある暗示的な出来事
今回のプロヴァンス訪問では、実は、ちょっとびっくりするようなエピローグがありました。マグダラのマリアの洞窟へ出かけた翌日、マルセイユを離れようとしたとき、私たちが使ったユーロ紙幣が、その頃フランスを騒がせていた「ニセ札」と疑われ、一行が現地の当局から取り調べを受けたのです。使った紙幣はれっきとした銀行で両替したものであり、結局、私たちの疑いは晴れ、無罪放免となりました。
びっくりするやら呆れるやら、という一件でしたが、私にとってはこの出来事が、マグダラのマリアが、自身の受けた苦難のごくごく一部を私に体験させたのではなかったのか……。そんなふうにも感じられたのでした。
そして、私はマリアの遺志が伝えられているとも考えられる道具――「タロット」を使いながら、彼女の思いを私なりに現代に伝えていかなければならない、と思ったのです。
青の洞窟・カプリ島(イタリア)
神秘的な「青の洞窟」が待つ憧れのカプリ島へ
ヨーロッパは、タロットや占星術にかかわりが深いこともあり、これまでたびたび訪れています。なかでもイタリアは、その歴史や文化のすばらしさに惹かれ、何度も足を運んでいます。北はフィレンツェ、ヴェネチア、南はナポリまで、いくつかの都市に行きましたが、それぞれの地域はとても個性豊か。ひとつとして同じ顔の都市がないのは、イタリアがかつて、いくつもの小国家に分かれて覇を競い合っていたためかもしれません。
今回訪れたカプリ島は、イタリア南部、ナポリ沖合いに浮かぶ小さな島です。この島にある有名な「青の洞窟」を、私は一度自分の目で見たいと思っていました。
以前、ボンペイの古代遺跡を見学するためにナポリを訪れたことはありましたが、そのときは時間の関係でカプリ島に渡ることはできませんでした。今回、ついに訪問がかない、とてもうれしい気持ちでした。
セレブたちが滞在するバカンスの島、カプリ
ティレニア海に浮かぶカプリ島は、東京の千代田区の面積と同じくらいの小さな島。深い青緑色をたたえた海と、そこからそそり立つ断崖、そして島の緑……。風光明媚とは、まさにこの島のことを言うのではないかと私には感じられました。
美しい風景と温暖な気候は、古代ローマ帝国の皇帝さえも魅了しました。紀元前1世紀、皇帝アウグストゥスは、この島全体を別荘地として購入。そのあとを継いだ皇帝ティベリウスは、この島に住みついて、半ば隠樓しながら政務を行ったといいます。
現在のカプリ島は、イタリア屈指の高級リゾート。各界の著名人がバカンスを楽しむ場所として知られ、高級ホテルやブティックも島の高台に軒を連ねています。私も例外ではなかったのですが、多くの日本人旅行者は、青の洞窟だけを見るとすぐに帰ってしまいます。しかし、多くのイタリア人セレブたちは、海上に浮かぶこの別天地で、日常を忘れて何日も過ごすそうです。なんともうらやましい話しですね。
エメラルドの海を背景に別荘地が広がる贅沢な風景
ナポリの港から水中翼船に乗った私と友人は、吸い込まれそうなエメラルドグリーンの海を一路カプリ島へ。穏やかな海から立ち上がるオーラも、また美しいエメラルドグリーンの色をしていました。その色に私は、霊感を得るきっかけともなった、18歳の時に突然浴びたエメラルド色のフラッシュを思い出しました。
40分ほどでカプリ島の玄関港、マリーナ・グランデに到着。そこにあふれる日差しの強さはナポリ異常のように感じられました。カプリ島にはアナカプリとカプリの2つの街がありますが、いずれも高台に開けているため、港近くからケーブルカーで街へ向います。カプリ地区に宿をとっていた私たちも、ケーブルカーに乗車。高度を上げるにつれて広がる、白亜の別荘群とヨットを浮かべた美しい海……。なんとも贅沢な風景でした。
ケーブルカーを降りると、目の前の広場には、カフェのパラソルが並び、高級ブランドのショップが軒を連ねています。私たちも広場の一角にあるカフェで食事をしましたが、こうして島の中でいただく食事というのは珍しく、あらためて「遠くまで来たな」という思いがこみあげてきました。
言葉を失うほどの感動体験、青の洞窟
快適なホテルで一夜を過ごした翌日、いよいよこの島のハイライトである青の洞窟へ。青の洞窟は、海に接した洞窟の内部が、光線の加減によって青白く浮かび上がる神秘的な空間。モーターボートで洞窟の近くまで行き、そこから手漕ぎボートに乗り換えて青の洞窟を往復します。一般のボートの漕ぎ手と交渉。いくらか多めにチップを払うことで話しがまとまると、すぐにボートに乗せてくれました。周辺の海にはすでに薄紫のオーラが漂い、これから体験する神秘体験への期待を高めてくれます。
波打ち際に半分隠れた青の洞窟の入口は狭く、くぐる際には頭を下げるほどでした。内部へ入った瞬間、私は息を飲み、言葉をなくしみあした。中には数十メートルの意外なまでに広い空間があり、そこに広がる海が青白く光っています。
「なんて美しいんだろう!」私は心の中で叫びました。体は、まるで宇宙に浮かんでいるような不思議な感覚でした。ボートの漕ぎ手がオールをひとかきすると、小さな波がまるでダイヤモンドのようにきらめき、青の中へと消えていきます。
洞窟の中にいたのは、10分にも満たない短時間でしたが、その中で私は藍色や紫のやさしいオーラを感じ、不思議なまでに癒されていました。
世界中のどこにもない癒しのエネルギーに触れて
一度、この目で見たいと思っていた、青の洞窟。その内部に満ちるオーラのエネルギーは、これまでどこでも感じたことのないものでした。私が世界各地で感じて来たオーラには、愛、憎しみ、権威、敵意などさまざまなエネルギーがこもっていました。しばしばオーラの持つマイナスな気にうちのめされることもあり、そんなとき私は、過去の負の歴史が集積してきたエネルギーの大きさを思うのでした。
しかし、青の洞窟のオーラは、そうしたものとはまったく無縁の存在でした。そこにマイナスな気配は一切なく、かといって愛や好意といった人間臭い感情もありませんでした。洞窟は、ただただ神秘的に青く、静かに“癒し”のエネルギーを漂わせていたのです。おそらくこのことは、人の手が加わらず、純粋に自然の営みだけで洞窟がつくられたことによるのでしょう。
今回のカプリ島滞在は、とても短期間で、その島の魅力を100%体験するまでには至りませんでした。しかし、青の洞窟での神秘体験はかけがえのないものとなりました。またいつの日か、たっぷりと時間をかけてこの島の魅力に触れたい……そう強く思う私でした。
皇帝も童話作家もみせられた、青の洞窟
カプリ島の代名詞ともなっている、名称・青の洞窟。この神秘の洞窟は、古くから特別な場所としてとらえられていた。古代ローマ帝国の時代には、皇帝の個人的な浴場として使用されていたことが記録に残されている。洞窟に至る地下通路が確認されているが、その一部はふさがれており、かつては島のカタコンブ(地下墓所)につながっていたと考えられている。19世紀に著わされた、デンマークの童話作家・アンデルセンの出世作となった翔セル「即興詩人」は、この青の洞窟が重要な舞台となっている。
青の洞窟は波の浸食によって生まれた「海食洞」と呼ばれる洞窟である。カプリ島に散在する海食洞のうち、この青の洞窟がこれほどまでに幻想的、神秘的に光るのは、周囲の岩肌が白く、そこに絶妙な角度で太陽光線が入って反射するためである。見学の際は必ず午前中に行くことが条件。午前中は、太陽光線の角度が低く、屈折しやすいからである。時間帯でいえば、午前10時から12時がベスト。
青の洞窟へは、島内のアリーナ、グランデから専用観光船で洞窟近くまで行き、小舟に乗り換えるのが一般的だが、陸からもアプローチは可能。アナカプリから洞窟行きのバスに乗り、終点で下車。そこから崖づたいに降りていくと、小舟に乗ることができる。
カプリ島の代名詞ともなっている、名称・青の洞窟。この神秘の洞窟は、古くから特別な場所としてとらえられていた。古代ローマ帝国の時代には、皇帝の個人的な浴場として使用されていたことが記録に残されている。洞窟に至る地下通路が確認されているが、その一部はふさがれており、かつては島のカタコンブ(地下墓所)につながっていたと考えられている。19世紀に著わされた、デンマークの童話作家・アンデルセンの出世作となった翔セル「即興詩人」は、この青の洞窟が重要な舞台となっている。
青の洞窟は波の浸食によって生まれた「海食洞」と呼ばれる洞窟である。カプリ島に散在する海食洞のうち、この青の洞窟がこれほどまでに幻想的、神秘的に光るのは、周囲の岩肌が白く、そこに絶妙な角度で太陽光線が入って反射するためである。見学の際は必ず午前中に行くことが条件。午前中は、太陽光線の角度が低く、屈折しやすいからである。時間帯でいえば、午前10時から12時がベスト。
青の洞窟へは、島内のアリーナ、グランデから専用観光船で洞窟近くまで行き、小舟に乗り換えるのが一般的だが、陸からもアプローチは可能。アナカプリから洞窟行きのバスに乗り、終点で下車。そこから崖づたいに降りていくと、小舟に乗ることができる。
2007年8月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』
マグダラのマリアの洞窟(フランス)
イエスをめぐるもう一人のマリア、マグダラのマリア
みなさんは、「マグダラのマリア」という名前を聞いたことがありますか?
イエス・キリストの生涯には二人のマリアが関わります。
一人は言うまでもなくイエスを処女受胎によって生んだ聖母マリア。
そしてもう一人が、マグダラのマリアなのです。
ヨーロッパ各地では、カトリック教会などを中心に聖母マリアを古くから讃えてきましたが、その一方で、マグダラのマリアも信仰の対象とされてきました。しかし、その信仰はきわめて少数派であり、限られた地方でのみに受け継がれています。というのも、伝統的にバティカンを頂上とするカトリック教会から、マグダラのマリア信仰は禁じられてきた経緯があるからです。「表のマリア」が聖母マリアだとすれば、「裏のマリア」とも呼ぶべき存在が、マグダラのマリアなのです。
一説によれば、マグダラのマリアはもともと娼婦だったとも言われています。しかし、イエスの導きによって自分の行いを悔い改めたとされます。その後、マリアはイエスに忠実に従い、その寵愛を一身に集めたため、ペテロら12人の信徒からはひどく嫉妬されることになったといいます。
ちなみに、初期のキリスト教会では、マグダラのマリアは信徒の中の筆頭としての扱いを受けていましたが、のちにカトリックは、マリアの存在を無視し、ペテロを第一人者としてあがめるようになりました。
カトリック教会を震撼させた衝撃の“事実”とは……?
絶えずイエスに同行していたマリアは、いよいよイエスが磔刑になるというとき、その姿を見届け、さらに復活したイエスに最初に出会ったとされます。後世、マリアが聖人として扱われるようになった理由も、そのあたりのいきさつにあります。
しかし、マグダラのマリアについての最も重要なエピソードは、そのようなことではありません。
実は「マリアがイエス・キリストの子供を産んだ」という“伝説”があるのです。もし、これが本当であれば、神が人間と交わって子をもうけたということになり、「イエスは神の子」とするカトリック教会の教えは否定され、その権威はもろくも崩れてしまうのです。
マグダラのマリアがイエスの子を身ごもった……。これが真実かどうかは、私にはなんとも言えません。しかし、カトリック教会から迫害されたキリスト教の異端の一派「カタリ派」が密かにマリアを信奉したこと、そして、そのカタリ派の教えが、タロット・カード(マルセイユ・タロット)の成立と深いかかわりがあることは、私に「マグダラのマリアの聖地を訪れたい」という強い気持ちを抱かせたのでした。
前回は、マリアの頭蓋骨だとされる遺物をまつる教会をご紹介しましたが、今回は、迫害の末に南仏にたどり着いたマリアが、隠れ住んだと言われるサント・ボーム山中の聖なる洞窟についてご案内しましょう。
マリアゆかりの聖なる洞窟で過ごした貴重なひととき
美しく晴れ上がった冬の日、私は今回、マルセイユ・タロットのワークショップに参加した一行とともに、サント・ボーム山の麓の町、サン・マクシマン・ラ・サント・ボームを出発し、徒歩で聖なる洞窟をめざしました。
雪の残る山道は険しく1時間におよぶ山道歩きは大変つらいものでした。ようやくのことでたどり着いた、岩山の中腹にある洞窟は、プロヴァンス最大の巡礼地らしく、神聖な雰囲気を漂わせていました。
洞窟内に足を踏み入れると、そこには薄紫、藍色、エメラルド・グリーンなど、ブルー系のオーラが満ちていました。そして、肩のあたりを後ろから引っぱられる感覚がし、金縛りにあったようにその場に動くことができませんでした。やがて、次のような闇からのメッセージが聞こえてきました。「ようこそ。真実の場所へ」―-それは、マリア自身の声だったのでしょうか、私には、その声がとても哀しみに彩られているように感じられました。
洞窟内には、祭壇やマリアの像などが祀られてあり、33年間ここで冥想の日々を送ったというマリアの極限の信仰生活をしのばせました。この洞窟で私は、重苦しいエネルギーを感じ続けていましたが、それはマグダラのマリアが背負った苦しみの大きさによるものだったのかもしれません。
キリストの子を身ごもったマリアは、つらい迫害を受けたといいます。そして、死後もなお、ローマ・カトリック教会によって差別を受けたのです。
サント・ボームの聖なる洞窟は、巡礼者が癒しを受ける場所ではなく、マリアの魂こそが癒しを必要としている場所なのだ……。
そんなことを考えながら、私は厳粛な気持ちで帰りの山道を下っていったのでした。
プロヴァンスで起きた、ある暗示的な出来事
今回のプロヴァンス訪問では、実は、ちょっとびっくりするようなエピローグがありました。マグダラのマリアの洞窟へ出かけた翌日、マルセイユを離れようとしたとき、私たちが使ったユーロ紙幣が、その頃フランスを騒がせていた「ニセ札」と疑われ、一行が現地の当局から取り調べを受けたのです。使った紙幣はれっきとした銀行で両替したものであり、結局、私たちの疑いは晴れ、無罪放免となりました。
びっくりするやら呆れるやら、という一件でしたが、私にとってはこの出来事が、マグダラのマリアが、自身の受けた苦難のごくごく一部を私に体験させたのではなかったのか……。そんなふうにも感じられたのでした。
そして、私はマリアの遺志が伝えられているとも考えられる道具――「タロット」を使いながら、彼女の思いを私なりに現代に伝えていかなければならない、と思ったのです。
「イエスの子」は、カトリック最大のスキャンダル
マグダラのマリアが迫害から逃れ、プロヴァンスに流れ着いたとき、「聖杯」(イエス・キリストの最後の晩餐で使われ、十字架にかけられたイエスの血を受けたとされる)を密かに持っていたと言われている。この聖杯を門外不出の“宝”としていたと言われるのが、異端の一派カタリ派であり、テンプル騎士団である。テンプル騎士団の母体となったシオン修道会は、フランク王朝メロヴィング家こそがイエスとマグダラのマリアの子孫であると主張し、その復権をもくろんだこともある。
もちろん、「神の子イエスの子」など認めるわけのないカトリック側は、この説を真っ向から否定し、マグダラのマリアの存在を聖書の中からできるだけ排除し、この“事実”を隠そうとしたのである。
マグダラのマリアは、本当にイエスの子を身ごもったのか?
子供がいたとすれば、その血脈は後世にどのように続いていったのか?
真相は闇の中であり、今なお多くの学者が事実を求めて研究を行っている。ちなみに、大ヒット小説「ダヴィンチ・コード」は、このあたりのエピソードを巧に取り込んだ傑作ミステリー。
マグダラのマリアが迫害から逃れ、プロヴァンスに流れ着いたとき、「聖杯」(イエス・キリストの最後の晩餐で使われ、十字架にかけられたイエスの血を受けたとされる)を密かに持っていたと言われている。この聖杯を門外不出の“宝”としていたと言われるのが、異端の一派カタリ派であり、テンプル騎士団である。テンプル騎士団の母体となったシオン修道会は、フランク王朝メロヴィング家こそがイエスとマグダラのマリアの子孫であると主張し、その復権をもくろんだこともある。
もちろん、「神の子イエスの子」など認めるわけのないカトリック側は、この説を真っ向から否定し、マグダラのマリアの存在を聖書の中からできるだけ排除し、この“事実”を隠そうとしたのである。
マグダラのマリアは、本当にイエスの子を身ごもったのか?
子供がいたとすれば、その血脈は後世にどのように続いていったのか?
真相は闇の中であり、今なお多くの学者が事実を求めて研究を行っている。ちなみに、大ヒット小説「ダヴィンチ・コード」は、このあたりのエピソードを巧に取り込んだ傑作ミステリー。
2005年10月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』