ポンペイの娼館(イタリア)
小ポンペイの町に入って突然感じた、強烈な赤のオーラ
イタリアのポンペイは、イタリア半島南部、ナポリの南東にある古代都市で、起元79年に起った火山の噴火によって、町全体が火山灰の下に埋もれてしまったことで有名です。
早朝のローマをバスで立ち、美しい風景を見ながらおよそ3時間。美しい風景で知られる港町・ナポリを過ぎると、目的地のポンペイは、もうすぐ。胸の高鳴りを感じていると、突然、周囲の世界が一変しました。ポンペイの町に入った瞬間に、強烈なオーラを体に感じたのです。オーラの色は、「赤」。通過したナポリでは、淡い赤でした。
世界の各地を訪れると、いつもその場所固有のオーラを感じます。例えばイタリアでも、ローマは茶色系ですが、一歩ヴァチカンに足を踏み入れると、青紫にかわります。このポンペイでは、それが赤だったというわけです。なぜ、赤なのでしょう?きっとそれは、かつてポンペイの町を消滅させた、ヴェスヴィオ火山の火の色だろう。そのときはそう考えました。しかし「赤」の本当の理由をのちに私は知ることになるのです。
いまと変わらない暮らしぶり、そして、人びとの最期の姿に驚き。
ポンペイには、2000年近く前のものとは思えないような、きれいに区画された町並みが広がったままの形で残っていることでした。カウンターのある居酒屋、粉引きの石臼や窯をしつらえた大浴場……などなど。それらのたたずまいは、今とほとんど変わらない、ハイレベルな暮らしぶりが存在したことを物語っていました。
さらに驚いたことに、このポンペイでは大惨事の瞬間まで、この地に暮していた人びとの姿を直接見ることができました。大噴火が起こったとき、まず有毒ガスが町をおおったといいます。人びとの多くは、遠くへ逃げることも叶わずその場に倒れていきました。火山灰に埋った遺体は、熱のために焼失し、その部分が空洞化。発掘時、そこに石膏を流し込んで型を取った“人形”が、各所で見ることができるのです。うつぶせで倒れている者、しゃがみこんで口を手でおおう者、なかには、もがき苦しむ犬の姿も……。無言の歴史の語り部たちの姿を前に、私は言葉をなくしました。
ようやくわかった、ポンペイの赤いオーラの理由
遺跡の中には、人間の赤裸々な営みを物語るものも少なくありません。その代表的な場所が、売春宿です。宿に入った私を驚かせたのは、各部屋の扉の上の壁に描かれた男女の体位の絵!当時は、客に好みの体位を選ばせていたらしく、それらの絵は、いわばサービス内容を紹介したメニューだったのです。
さらに、この売春宿の近くの大通りの石畳には、男性のシンボルをかたどったレリーフが残っていますが、なんとこれは、売春宿の方角を示したサイン!ポンペイの町ではこのほかにも、各所でエロチックな絵画に出あうことができます。この地は、人日との生活文化が花開いた場所であるのと同時に、性の文化も咲き誇った場所だったのです。そして、売春宿の奴隷同然の娼婦たちに象徴されるように、人間の身分の差が歴然とここには存在していました。
こうした事実を知ったとき、私は、この町で感じた「赤」のオーラの本当の理由がわかった気がしました。赤は、このポンペイに渦巻いた快楽や欲望、怒り、苦しみの色なのでしょう。「性」と「生」のエネルギーが噴火によって封じ込められ、逃げ場を失ったまま2000年のときを静かに重ねたのです。
ポンペイ――それは私に、時代を経ても変わらない人間の生々しい営みと、業の深さを実感させる場所でした。是非、読者のみなさんも一度この地を訪れて、ドラマチックな古代絵巻に酔いしれてみてください。
ストーンヘンジ(イギリス)
何の目的で、誰が造ったのか?謎だらけの太古の巨大遺跡、ストーンヘンジ
みなさんは、「ストーンヘンジ」という名前を聞いたことがあるかと思います。イギリスのロンドンから南西約90kmの草原地帯にある太古の巨石遺跡。宗教儀式に使われた神殿なのか、古代の天体観測所なのか、造ったのは誰なのか……。謎につつまれたこの遺跡を、私は以前から一度この目で見てみたいと思っていました。
ロンドンから現地へバスで向う当日は、あいにくの小雨。晩春だというのに肌寒く、途中の休憩所でコートを購入したほどでした。ストーンヘンジがあるのは、荘厳な大聖堂で知られるソールズベリーの街の郊外。あたりは草原地帯でイギリスらしいのどかな雰囲気にあふれています。
草原の中をバスで走り続けると、やがて彼方に、特徴のある巨石群が見えてきました。写真では何度も見ていますが、実際に見るストーンヘンジの風景は、やはり不思議なものでした。明らかに目的があって造られた人工物であるのに、他の古代遺跡とはまったく違い、人間のにおいを感じさせないのです。周囲の草原とはまったく異なる別世界—それがストーンヘンジの第一印象でした。
遺跡全体を包むブルーのオーラ、そして薄紫、オレンジのオーラも。
その理由は一体……?
遺跡で見られたオーラも奇妙なものでした。サークル状の遺跡全体は神秘的なブルーのオーラに包まれています。しかし、立ち並ぶ石柱の上部だけはオーラの色が薄紫で、さらに、サークルの中心部を見ると、そこだけオレンジのオーラになっているのです。つまり、ストーンヘンジのオーラは、ブルー、薄紫、オレンジの3種類で構成されています。
直感的に思ったのは、「ここは祈りの場所だったのではないか」といいうことです。というのも、ブルーのオーラに、とても神聖なエネルギーを感じたからです。石柱上部の青紫のオーラには一段と深い神聖さを感じましたが、それはこの場所が祭壇だったからかもしれません。そして、中心部のオレンジのオーラについては、かつてここで火が焚かれた名残のように思えました。夏至や春分など一年の決まった日に、特別な立場にある者たちがここに集い、火を焚き、祭壇に生け贄を捧げ祈祷をする―。
そんなイメージが私の脳裏に浮かびました。
しかし不思議なことに、ここには人間のエネルギーというものが感じられません。では、これを造った者は、一体誰だったのでしょう?何十トンもの石をいくつもこの地へ運び、サークル状に並べ、祈りの場を造り上げる。それが神の所業でないとすれば……。私は、宇宙からやってきた者たちのかかわりを強く感じたのでした。
大英博物館で、憧れのエジプトの神像たちに対面。次回はぜひエジプトへ!
不思議な感覚を抱いたまま、私はストーンヘンジを離れました。帰途には、紀元前にローマ人によって開かれた保養地、バースに立ち寄りました。
ローマ時代の浴場跡やゴシック様式の聖堂があるこのまちでは、保養地らしい解放的なムードもあり、ストーンヘンジでとらわれた「一種の緊張感」から、解き放たれていく思いがしました。
ロンドンでは、大英博物館へ足を運んでみました。ここでのお目当ては、充実のエジプト・コレクション。エジプトの神話は、私の専門であるタロット・カードの起源と深く結びついていることもあり、神像たちに会っておきたかったのです。神秘的な神像たちは、エジプトへの私の憧れをかき立てるに十分なもの、次回はぜひエジプトへみなさんをご案内したいと思いました。
世界にはさまざまな名所があり、そこはさまざまなオーラに彩られています。
それぞれのオーラを知ることは、その場所に秘められた歴史のドラマや、いにしえの人たちからのメッセージを知ることでもあります。ぜひ、みなさんも多くの場所を訪れて、神秘のオーラパワーにふれてみてください。
ポンペイの娼館(イタリア)
小ポンペイの町に入って突然感じた、強烈な赤のオーラ
イタリアのポンペイは、イタリア半島南部、ナポリの南東にある古代都市で、起元79年に起った火山の噴火によって、町全体が火山灰の下に埋もれてしまったことで有名です。
早朝のローマをバスで立ち、美しい風景を見ながらおよそ3時間。美しい風景で知られる港町・ナポリを過ぎると、目的地のポンペイは、もうすぐ。胸の高鳴りを感じていると、突然、周囲の世界が一変しました。ポンペイの町に入った瞬間に、強烈なオーラを体に感じたのです。オーラの色は、「赤」。通過したナポリでは、淡い赤でした。
世界の各地を訪れると、いつもその場所固有のオーラを感じます。例えばイタリアでも、ローマは茶色系ですが、一歩ヴァチカンに足を踏み入れると、青紫にかわります。このポンペイでは、それが赤だったというわけです。なぜ、赤なのでしょう?きっとそれは、かつてポンペイの町を消滅させた、ヴェスヴィオ火山の火の色だろう。そのときはそう考えました。しかし「赤」の本当の理由をのちに私は知ることになるのです。
いまと変わらない暮らしぶり、そして、人びとの最期の姿に驚き。
ポンペイには、2000年近く前のものとは思えないような、きれいに区画された町並みが広がったままの形で残っていることでした。カウンターのある居酒屋、粉引きの石臼や窯をしつらえた大浴場……などなど。それらのたたずまいは、今とほとんど変わらない、ハイレベルな暮らしぶりが存在したことを物語っていました。
さらに驚いたことに、このポンペイでは大惨事の瞬間まで、この地に暮していた人びとの姿を直接見ることができました。大噴火が起こったとき、まず有毒ガスが町をおおったといいます。人びとの多くは、遠くへ逃げることも叶わずその場に倒れていきました。火山灰に埋った遺体は、熱のために焼失し、その部分が空洞化。発掘時、そこに石膏を流し込んで型を取った“人形”が、各所で見ることができるのです。うつぶせで倒れている者、しゃがみこんで口を手でおおう者、なかには、もがき苦しむ犬の姿も……。無言の歴史の語り部たちの姿を前に、私は言葉をなくしました。
ようやくわかった、ポンペイの赤いオーラの理由
遺跡の中には、人間の赤裸々な営みを物語るものも少なくありません。その代表的な場所が、売春宿です。宿に入った私を驚かせたのは、各部屋の扉の上の壁に描かれた男女の体位の絵!当時は、客に好みの体位を選ばせていたらしく、それらの絵は、いわばサービス内容を紹介したメニューだったのです。
さらに、この売春宿の近くの大通りの石畳には、男性のシンボルをかたどったレリーフが残っていますが、なんとこれは、売春宿の方角を示したサイン!ポンペイの町ではこのほかにも、各所でエロチックな絵画に出あうことができます。この地は、人日との生活文化が花開いた場所であるのと同時に、性の文化も咲き誇った場所だったのです。そして、売春宿の奴隷同然の娼婦たちに象徴されるように、人間の身分の差が歴然とここには存在していました。
こうした事実を知ったとき、私は、この町で感じた「赤」のオーラの本当の理由がわかった気がしました。赤は、このポンペイに渦巻いた快楽や欲望、怒り、苦しみの色なのでしょう。「性」と「生」のエネルギーが噴火によって封じ込められ、逃げ場を失ったまま2000年のときを静かに重ねたのです。
ポンペイ――それは私に、時代を経ても変わらない人間の生々しい営みと、業の深さを実感させる場所でした。是非、読者のみなさんも一度この地を訪れて、ドラマチックな古代絵巻に酔いしれてみてください。
繁栄を極めた古代の先進都市ポンペイ
ナポリの南東約25kmの場所に、紀元前から商業都市として栄えた、ポンペイ。そこは、整然と区画された町並みや、歩道付きの道路が広がる古代の先進都市だった。家々の壁は美しいフレスコ画に彩られ、人びとは現代の私たちと同じように、パン屋でパンを貰い、居酒屋で酒を飲み、ブドウ栽培に従事していた。
町の反映を永遠に停止させてしまった運命のとき—それは、ローマ植民地下にあった紀元79年8月24日の午後1時過ぎにやって来た。この火、町の北西にあるヴェスヴィオ火山が大爆発。三日三晩降り注いだ火山弾や火山灰により、人びとは生き埋めになり、町は埋没してしまった。そして、1600年以上も忘れさられることになる。まだ全体の30%が手つかずという。現在、見学できる遺跡は、神殿や邸宅をはじめ、大浴場、パン屋、居酒屋などさまざま。それらは長い年月、灰の中で守られていたので保存状態がよく、歴史資料として最高レベルにある。ちなみに、噴火が起こった当時の日本は弥生時代で、ようやく鉄器が使われるようになったころであった。
娼婦で性を売る女性たちの哀しみ
売春宿は、ポンペイで約25軒が確認されている。ただし、多くは居酒屋などが兼ねていたもので、専門にみせを構えていたのは一軒だけだった。その宿は、大通リから裏小路に入ったところにある二階建てで、各階にそれぞれ5部屋があり、そこで娼婦が客をとっていた。ポンペイの町は、外界との交易が盛んなところで、絶えず多くの商人たちが出入りしていた。なかには、言葉の通じない異国の者たちもいた。本文で、売春宿の体位の絵や石畳に残る男性のシンボルを紹介したが、言葉がわからなくても、そうした絵柄を見るだけで スムーズに欲望を満たすことができたというわけである。
売春宿には庶民も出入りし、身分の低い男たちも利用していた。彼らを迎えた娼婦はさらに身分が低く、奴隷同然だった。売春の値段はいたって安く、ワイン2杯と同じ値段だったという。彼女たちが、男たちの性の対象としてつらい日々を送っていたことは想像に難くない。
ナポリの南東約25kmの場所に、紀元前から商業都市として栄えた、ポンペイ。そこは、整然と区画された町並みや、歩道付きの道路が広がる古代の先進都市だった。家々の壁は美しいフレスコ画に彩られ、人びとは現代の私たちと同じように、パン屋でパンを貰い、居酒屋で酒を飲み、ブドウ栽培に従事していた。
町の反映を永遠に停止させてしまった運命のとき—それは、ローマ植民地下にあった紀元79年8月24日の午後1時過ぎにやって来た。この火、町の北西にあるヴェスヴィオ火山が大爆発。三日三晩降り注いだ火山弾や火山灰により、人びとは生き埋めになり、町は埋没してしまった。そして、1600年以上も忘れさられることになる。まだ全体の30%が手つかずという。現在、見学できる遺跡は、神殿や邸宅をはじめ、大浴場、パン屋、居酒屋などさまざま。それらは長い年月、灰の中で守られていたので保存状態がよく、歴史資料として最高レベルにある。ちなみに、噴火が起こった当時の日本は弥生時代で、ようやく鉄器が使われるようになったころであった。
娼婦で性を売る女性たちの哀しみ
売春宿は、ポンペイで約25軒が確認されている。ただし、多くは居酒屋などが兼ねていたもので、専門にみせを構えていたのは一軒だけだった。その宿は、大通リから裏小路に入ったところにある二階建てで、各階にそれぞれ5部屋があり、そこで娼婦が客をとっていた。ポンペイの町は、外界との交易が盛んなところで、絶えず多くの商人たちが出入りしていた。なかには、言葉の通じない異国の者たちもいた。本文で、売春宿の体位の絵や石畳に残る男性のシンボルを紹介したが、言葉がわからなくても、そうした絵柄を見るだけで スムーズに欲望を満たすことができたというわけである。
売春宿には庶民も出入りし、身分の低い男たちも利用していた。彼らを迎えた娼婦はさらに身分が低く、奴隷同然だった。売春の値段はいたって安く、ワイン2杯と同じ値段だったという。彼女たちが、男たちの性の対象としてつらい日々を送っていたことは想像に難くない。
2004年9月「恋運歴」(イーストプレス)『オーラ紀行』
ストーンヘンジ(イギリス)
何の目的で、誰が造ったのか?謎だらけの太古の巨大遺跡、ストーンヘンジ
みなさんは、「ストーンヘンジ」という名前を聞いたことがあるかと思います。イギリスのロンドンから南西約90kmの草原地帯にある太古の巨石遺跡。宗教儀式に使われた神殿なのか、古代の天体観測所なのか、造ったのは誰なのか……。謎につつまれたこの遺跡を、私は以前から一度この目で見てみたいと思っていました。
ロンドンから現地へバスで向う当日は、あいにくの小雨。晩春だというのに肌寒く、途中の休憩所でコートを購入したほどでした。ストーンヘンジがあるのは、荘厳な大聖堂で知られるソールズベリーの街の郊外。あたりは草原地帯でイギリスらしいのどかな雰囲気にあふれています。
草原の中をバスで走り続けると、やがて彼方に、特徴のある巨石群が見えてきました。写真では何度も見ていますが、実際に見るストーンヘンジの風景は、やはり不思議なものでした。明らかに目的があって造られた人工物であるのに、他の古代遺跡とはまったく違い、人間のにおいを感じさせないのです。周囲の草原とはまったく異なる別世界—それがストーンヘンジの第一印象でした。
遺跡全体を包むブルーのオーラ、そして薄紫、オレンジのオーラも。
その理由は一体……?
遺跡で見られたオーラも奇妙なものでした。サークル状の遺跡全体は神秘的なブルーのオーラに包まれています。しかし、立ち並ぶ石柱の上部だけはオーラの色が薄紫で、さらに、サークルの中心部を見ると、そこだけオレンジのオーラになっているのです。つまり、ストーンヘンジのオーラは、ブルー、薄紫、オレンジの3種類で構成されています。
直感的に思ったのは、「ここは祈りの場所だったのではないか」といいうことです。というのも、ブルーのオーラに、とても神聖なエネルギーを感じたからです。石柱上部の青紫のオーラには一段と深い神聖さを感じましたが、それはこの場所が祭壇だったからかもしれません。そして、中心部のオレンジのオーラについては、かつてここで火が焚かれた名残のように思えました。夏至や春分など一年の決まった日に、特別な立場にある者たちがここに集い、火を焚き、祭壇に生け贄を捧げ祈祷をする―。
そんなイメージが私の脳裏に浮かびました。
しかし不思議なことに、ここには人間のエネルギーというものが感じられません。では、これを造った者は、一体誰だったのでしょう?何十トンもの石をいくつもこの地へ運び、サークル状に並べ、祈りの場を造り上げる。それが神の所業でないとすれば……。私は、宇宙からやってきた者たちのかかわりを強く感じたのでした。
大英博物館で、憧れのエジプトの神像たちに対面。次回はぜひエジプトへ!
不思議な感覚を抱いたまま、私はストーンヘンジを離れました。帰途には、紀元前にローマ人によって開かれた保養地、バースに立ち寄りました。
ローマ時代の浴場跡やゴシック様式の聖堂があるこのまちでは、保養地らしい解放的なムードもあり、ストーンヘンジでとらわれた「一種の緊張感」から、解き放たれていく思いがしました。
ロンドンでは、大英博物館へ足を運んでみました。ここでのお目当ては、充実のエジプト・コレクション。エジプトの神話は、私の専門であるタロット・カードの起源と深く結びついていることもあり、神像たちに会っておきたかったのです。神秘的な神像たちは、エジプトへの私の憧れをかき立てるに十分なもの、次回はぜひエジプトへみなさんをご案内したいと思いました。
世界にはさまざまな名所があり、そこはさまざまなオーラに彩られています。
それぞれのオーラを知ることは、その場所に秘められた歴史のドラマや、いにしえの人たちからのメッセージを知ることでもあります。ぜひ、みなさんも多くの場所を訪れて、神秘のオーラパワーにふれてみてください。
ストーンヘンジ ―約5000年前に起源を持つ、謎に包まれた古代遺跡
ストーンヘンジは、巨大な石柱が横石を支える構造の石群が、直径約30メートルのサークルをつくっている。さらにその内側にも、巨石が馬蹄形に配置されている。
ストーンヘンジの歴史は、大まかに言って3つの段階を経てきたとされている。初期は土手と堀からなる円形の場所で、約5000年前に一種の集会所として使われたという。4900年前から4600年前にかけての第二段階では、木造の構造物が出現。さらに、遠くはウェールズから運ばれてきた巨石でサークルが造られていった。そして、4500年前から4000年前には、最終的な神殿のような形態になった。現存する遺跡は、およそ3600年前のものといわれている。
しかし、最大45トンもの巨石をどうやってここまで運んだのか?どうして入口の方向が夏至の日の出の方向とピタリと一致しているのか?それらの謎についてははっきりと解明されておらず、宗教施設や天体観測施設など、さまざまな説を生むこととなった。
人類の宝を集めた、世界最大級の博物館「大英博物館」
ロンドンを訪れたら、必ず訪れたいスポットが、大英博物館だ。開館は1759年。しかし、当初は、一日10人程度が訪れる施設にすぎなかったという。博物館のコレクションが充実していった時期は、イギリスが世界に覇権を誇った時期と重なる。18世紀末から19世紀にかけて、エジプト、ギリシア、メソポタミア、西アジアなどの考古学的な遺物が、“贈り物”として、あるいは“戦利品”として、続々博物館へ運びこまれた。そのなかには、フランスのナポレオンの軍隊がエジプトで発見し、イギリスが奪った有名なロゼッタ・ストーンも含まれている。これらの展示品の中には、現在、本国から返還を求められているものも少なくない。
大英博物館で人気があるのがエジプト・コレクションで、エジプト本国以外では最も優れたコレクションとなっている。王や神の石像や鮮やかな壁画などに目を奪われるが、人間のほか、鳥、猫、ワニまであるミイラも興味深い展示物となっている。
ストーンヘンジは、巨大な石柱が横石を支える構造の石群が、直径約30メートルのサークルをつくっている。さらにその内側にも、巨石が馬蹄形に配置されている。
ストーンヘンジの歴史は、大まかに言って3つの段階を経てきたとされている。初期は土手と堀からなる円形の場所で、約5000年前に一種の集会所として使われたという。4900年前から4600年前にかけての第二段階では、木造の構造物が出現。さらに、遠くはウェールズから運ばれてきた巨石でサークルが造られていった。そして、4500年前から4000年前には、最終的な神殿のような形態になった。現存する遺跡は、およそ3600年前のものといわれている。
しかし、最大45トンもの巨石をどうやってここまで運んだのか?どうして入口の方向が夏至の日の出の方向とピタリと一致しているのか?それらの謎についてははっきりと解明されておらず、宗教施設や天体観測施設など、さまざまな説を生むこととなった。
人類の宝を集めた、世界最大級の博物館「大英博物館」
ロンドンを訪れたら、必ず訪れたいスポットが、大英博物館だ。開館は1759年。しかし、当初は、一日10人程度が訪れる施設にすぎなかったという。博物館のコレクションが充実していった時期は、イギリスが世界に覇権を誇った時期と重なる。18世紀末から19世紀にかけて、エジプト、ギリシア、メソポタミア、西アジアなどの考古学的な遺物が、“贈り物”として、あるいは“戦利品”として、続々博物館へ運びこまれた。そのなかには、フランスのナポレオンの軍隊がエジプトで発見し、イギリスが奪った有名なロゼッタ・ストーンも含まれている。これらの展示品の中には、現在、本国から返還を求められているものも少なくない。
大英博物館で人気があるのがエジプト・コレクションで、エジプト本国以外では最も優れたコレクションとなっている。王や神の石像や鮮やかな壁画などに目を奪われるが、人間のほか、鳥、猫、ワニまであるミイラも興味深い展示物となっている。
2004年12月「恋運歴」(イーストプレス)『オーラ紀行』