聖なる子(イタリア)


聖なる子(イタリア)


博物館を思わせる丘の上の素朴な教会でホッとする時間を過ごす。

聖なる子


今回、まずご紹介するのは、サンタ・サビーナ教会。「真実の口」で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の南側、アヴェンティーノの丘と呼ばれる小高い丘の上にひっそりとたたずんでいます。レンガ造りの質素な外観から私が感じたオーラの色は、深いグリーンでした。

聖なる子


5世紀の創建という教会の内部に入ると、確かにそこは重厚な宗教空間でしたが、私にはどこか古い博物館にいるような感覚を受けました。そして、その感覚は、気持ちをホッとなごませてくれるものでした。教会の近くにはオレンジの木の植えられた公園があり、展望台からのローマ市内眺めも素晴らしいものでした。

聖なる子



崇高な薄紫のオーラに彩られた教会での忘れられない画家との再会

聖なる子


サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会は、古代ローマの神殿パンテオンのすぐ東側にある教会。私がここで感じたのは、崇高な薄紫色のオーラ。外観は地味なものの、内部には美しい装飾がひろがり、聞けば、ここはローマ唯一のゴシック様式の教会だそうです。
この教会には、それほど予備知識がなく出かけたのですが、入ってみて驚きました。私自身にとって大切な画家、フラ・アンジェリコのお墓がそこにあったのです。

聖なる子


15世紀に活躍したこの宗教画家の名画「受胎告知」をフィレンツェで見た時、そこに描かれた天使の姿に啓示を受け、本格的に占い道へ入ったという経緯が私にはあります。この教会への訪問も、実はフラ・アンジェリコのお導きだったのでは……。そんな風にも思えてしまいました。

聖なる子


この教会で見た美術品のなかでも、フラ・アンジェリコ作の「聖母子像」が、やはり秀作。この教会をつつむ薄紫のオーラのように気高さにあふれていました。


数多くの伝説に彩られ、庶民の信仰を集めてきた、奇蹟の神像との対面。

さて、今回のローマ教会めぐりのなかでも、ハイライトとなったのが、サンタ・マリア・イン・アラコエリ教会です。ローマのランドマークの1つ、ヴェネツィア広場の背後にあるカンピドーリオの丘の上にあり、素晴らしい眺望に恵まれています。

聖なる子


教会は6世紀に起源を持ち、美しいフレスコ画でも知られていますが、最大のみどころとなっているのは、“聖なる子”(サント・バンビーノ)。オリーブの木を彫って作られた幼少のキリスト像で、さまざまな伝説に彩られ、厚い信仰の対象となってきました。

聖なる子


最初、この教会の前に立った際、金色に輝くオーラが感じられました。なぜ金色なのだろう?と思いましたが、聖なる子に対面してその理由がわかりました。像が黄金に彩られていたのです。一見ユニークな外見で、ユーモラスな感じすらある小さな像。じっと見ていると吸い込まれるようなエネルギーを感じ、庶民の信仰を集めてきた理由もわかる気がしました。


ヨーロッパでの観光では、ぜひ、教会めぐりで、自分のための新たな発見を。

今回、私がローマで訪れた教会は、日本人には比較的知名度の低い場所かもしれません。しかし、それだからこそ、静かで充実したひとときが味わえました。訪れた教会のほとんどの名に“サンタ・マリア”(聖マリア)がつきますが、そのためか、あたかも母親に抱かれるようなやすらぎを感じることができました。
教会を訪れるにあたっては、敬意を忘れないことが大切です。教会は、神聖な場所ですが、人びとの悲しみや苦しみ、病気、死といったものとも密接に関わってきました。そのため、そこにあるマイナスのエネルギーを、ともすると訪れた人が吸収してしまうのです。
しかし、敬意さえ忘れなければ、生きる為の良いエネルギーをもらえるはずです。ぜひ、みなさんも、ヨーロッパでは教会めぐりをして、自分のためになる何かを発見してみてください。




教会を見ずして、イタリアを見たと言うなかれ

聖なる子


敬虔なカトリックの国イタリアでは、キリスト教文化に触れることが、観光の大きな割合を占めることになる。有名な絵画「最後の審判」も「最後の晩餐」も、ひとことで言ってしまえば聖書の教えを絵解きしたものである。キリスト教文化に濃厚に触れられるばしょ、それはもちろん教会。そこは、信仰の場所であるとともに、優れた建築、絵画、彫刻などの宝庫となっている。もし、イタリアを訪れて教会を見ることになく帰ってしまったら、この国の半分以上を見なかったともいえるだろう。
ほとんどの教会では入場料を取らない。ただし、いわゆる“志”を受け付けているので、いくらかのお金を置いてくるのもいい。教会見学で守るべき代表的なマナーは、「ふさわしい服装」、「静粛にする」の二つ。タンクトップに短パンというような肌を露出した格好は、礼を欠いたことになるので注意。また、曜日や時間によってはミサを行っていることもあるので、その際は、特に静かに見学するようにしたい。


奇蹟を願う手紙が世界中から届く「聖なる子」
サンタ・マリア・イン・アラコリエ教会にある幼いキリストの像「聖なる子」は、15世紀にフランチェスコ派の修道士が、オリーブの木で彫らせたものだといわれている。金色に輝くこの小さな像は、これまで数々の奇蹟を起こしたとされ、それらが伝説となって今に伝わっている。いわく、「重病人を治した」「死者を生き返らせた」……。それらの言い伝えもあって、過去に何度も教会から持ち出され、患者の枕元に運ばれたという。奇蹟が果たされるときは像の唇が赤くなり、果たされなかったときは唇が青くなる、とも言われている。この像の霊験は現在もなお広く信じられており、「ローマの聖なる子様」という宛名だけで、世界中の奇蹟を願う人びとから手紙が届くという。日本にも、自分の体の悪い部分と同じ箇所をさすると効き目があるという仏像がよくあるが、こちらの像は直接、手を触れることはできない。ケースの中に収まって、神々しい(やや不気味な?)尊顔を訪れた者に見せるだけである。




2004年11月「恋運歴」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


中空の瞳(イタリア)


中空の瞳(イタリア)


中空の瞳



信仰や思い、人間の生と死が幾重にも重なりあう、教会という場所。

ローマという街には、古代ローマ帝国の遺跡があり、中世の芸術作品があり、さらにカトリックの聖地もあります。もちろん、現代ローマとしてのおしゃれな表情も。そのため場所によって、さまざまなオーラを見ることができます。
今回は、ローマ市内に点在する由緒ある教会を訪ねてみました。教会という場所は、たくさんの人びとの信仰や思いが集まるところであり、長い歳月にわたって人の生と死が幾重にも重なってきたところです。それだけに強いエネルギーと独特のオーラの響きがあり、私はとてもその魅力にひかれるのです。
今回、ローマで訪れた教会は5つ。それらのうちの2つの教会――サンタ・マリア・マッジョーレ教会、そしてサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会について、まずご紹介したいと思います。

ローマ最大の教会で感じた、重厚感と慈しみにあふれた深い藍色のオーラの理由

サンタ・マリア・マッジョーレ教会は、ローマ中心部にある有名なテルミニ駅からもほど近い、ローマ最大の教会。階段を登った高台に立つ同教会は、堂々としたたたずまい。外観を見た時には、私は淡いベージュ色のオーラを感じましたが、教会の内部に入ると、その感覚は一変しました。深い藍色のオーラが私を包みこんだのです。その藍色は、どこまでも荘厳で重厚な趣をたたえていました。
かつてヴァチカンのサンピエトロ寺院でも重厚感を味わいましたが、それは背筋が寒くなるような緊張感をともなうものでした。しかし、このサンタ・マリア・マッジョーレ教会で感じた重厚感は、それとはまったく異なるもの。神秘的でミステリアスでありながら、どこか私を落ち着かせてくれる……。「この場所を再び訪れたい」そう思わせるような悲しみにあふれた感覚でした。

中空の瞳

中空の瞳



教会内部で、ふとあるものを見つけ、その場に私は釘付けとなってしまいました。金色のイエス・キリスト像の背後の壁に、中空に浮かぶ目を天使たちが取り囲んでいる絵が描かれていたのです。この絵を見たとたん、私は、タロットカードの一枚「塔」の絵柄を連想しました。タロットの「塔」は、アクシデントや破壊を暗示する不吉なカードとして一般的には知られています。しかし、このカードの正確な意味は「自分を見つめ直して、やるべきことをやらなければ大変なことが起きる」というもので、本当はありがたい神の啓示が語られているのです。
今回、サンタ・マリア・マッジョーレ教会で私が感じた、深い藍色のオーラ、そして重厚ながら慈しみにあふれたエネルギー。それは、この不思議な絵によるものだったのでは……?そんな思いを抱きながら、教会をあとにした私でした。

中空の瞳


ミケランジェロ設計の教会で感じた、やすらぎと癒しのエネルギー。

次に訪れたのが、やはりテルミニ駅の近くにある、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会。この教会は、ルネッサンス期の天才・ミケランジェロが設計したことで知られていますが、外観はまるで古代の遺跡のよう。“BASILICA”(集会場、寺院の意味)という表示がなければ、教会だとは気がつかないかもしれません。
内部は、外光がふんだんに入り、いたって明るい雰囲気。ここで感じたのは、淡い黄緑色のオーラ、そしてやすらぎや癒しのエネルギー。聞けば、ここは古代の大浴場の跡とのこと。大浴場は円形闘技場などと並んで、ローマ人の生活になくてはならなかったものだったそうです。現代の私たちが、温泉やスパで癒されるように、この場所で多くの人びとが癒されたのでしょう。やすらぎや癒しのエネルギーを感じたのは、実はそんな理由からかもしれません。
ローマ観光といえば、壮大なコロッセオやヴァチカンが定番ですが、日本人がそれほど多く訪れない教会にも、素晴らしい場所がたくさんあります。みなさんもそれらを訪れて、個性的なオーラに包まれてみてはいかがでしょう。




奇跡の地に立つ、サンタ・マリア・マッジョーレ教会
4世紀のローマ教皇リベリウスの夢に、8月のある日、聖母マリアが現れ、「雪が降る地に教会を建てよ」と告げた。真夏だったにもかかわらず、数日後ローマのある場所に雪が降ったという。この奇蹟に基づき、その場所に5世紀に建てられたのが、サンタ・マリア・マッジョーレ教会である。イタリアには“サンタ・マリア”とつく教会が多いが、これらは聖母マリアに捧げられたという意味。このサンタ・マリア・マッジョーレ教会は、その由来から別名“雪の聖母の大聖堂”とも呼ばれている。

中空の瞳


この教会では、5世紀以来のさまざまな芸術的な手法を見ることができる。内部の壁にみられる36個のモザイクは5世紀のもので、金色に輝く天井のモザイク「マリアの戴冠」は13世紀の作。また、内部の36本の柱は、古代ローマの神殿から選ばれたものである。かつて、この教会を中心にしてローマの都市計画が進んだともいわれ、現在でも市の中心部に位置し、教会の周囲にはまっすぐな道路が伸びているのを見ることができる。


かつては大浴場だった、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会
3世紀末に、強力な支配力を誇ったディオクレティアヌス帝が、現在のテルミニ駅の北西隣の場所に造営した巨大な大浴場。その古代の遺構を活かすようにして、16世紀の半ばに、かのミケランジェロが設計したのが、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会である。教皇ピウス4世によって工事監督に任命されたときには、ミケランジェロはすでに86歳の高齢だったため、教会の完成を見ずに亡くなってしまった。その後、さまざまな人物によって工事は受け継がれ、18世紀の半ばになってようやく完成を見た。ミケランジェロの非凡な才能を伺うことができるのが、古代の遺跡を最大限に利用したといわれる建物の前面部分。思わず「これが教会?」と言いたくなるような外観である。
ちなみに、もともとの大浴場を造ったディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国で最もキリスト教徒を迫害したことで有名。そんな彼がローマ人のために造営した自慢の大浴場の跡に、後年、キリスト教の教会が建てられようとは、彼も思いもよろなかっただろう。




2004年10月「恋運歴」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


ポンペイの娼館(イタリア)


ポンペイの娼館(イタリア)


ポンペイの娼館



小ポンペイの町に入って突然感じた、強烈な赤のオーラ

イタリアのポンペイは、イタリア半島南部、ナポリの南東にある古代都市で、起元79年に起った火山の噴火によって、町全体が火山灰の下に埋もれてしまったことで有名です。
早朝のローマをバスで立ち、美しい風景を見ながらおよそ3時間。美しい風景で知られる港町・ナポリを過ぎると、目的地のポンペイは、もうすぐ。胸の高鳴りを感じていると、突然、周囲の世界が一変しました。ポンペイの町に入った瞬間に、強烈なオーラを体に感じたのです。オーラの色は、「赤」。通過したナポリでは、淡い赤でした。
世界の各地を訪れると、いつもその場所固有のオーラを感じます。例えばイタリアでも、ローマは茶色系ですが、一歩ヴァチカンに足を踏み入れると、青紫にかわります。このポンペイでは、それが赤だったというわけです。なぜ、赤なのでしょう?きっとそれは、かつてポンペイの町を消滅させた、ヴェスヴィオ火山の火の色だろう。そのときはそう考えました。しかし「赤」の本当の理由をのちに私は知ることになるのです。

ポンペイの娼館


いまと変わらない暮らしぶり、そして、人びとの最期の姿に驚き。

ポンペイには、2000年近く前のものとは思えないような、きれいに区画された町並みが広がったままの形で残っていることでした。カウンターのある居酒屋、粉引きの石臼や窯をしつらえた大浴場……などなど。それらのたたずまいは、今とほとんど変わらない、ハイレベルな暮らしぶりが存在したことを物語っていました。
さらに驚いたことに、このポンペイでは大惨事の瞬間まで、この地に暮していた人びとの姿を直接見ることができました。大噴火が起こったとき、まず有毒ガスが町をおおったといいます。人びとの多くは、遠くへ逃げることも叶わずその場に倒れていきました。火山灰に埋った遺体は、熱のために焼失し、その部分が空洞化。発掘時、そこに石膏を流し込んで型を取った“人形”が、各所で見ることができるのです。うつぶせで倒れている者、しゃがみこんで口を手でおおう者、なかには、もがき苦しむ犬の姿も……。無言の歴史の語り部たちの姿を前に、私は言葉をなくしました。

ポンペイの娼館


ようやくわかった、ポンペイの赤いオーラの理由

遺跡の中には、人間の赤裸々な営みを物語るものも少なくありません。その代表的な場所が、売春宿です。宿に入った私を驚かせたのは、各部屋の扉の上の壁に描かれた男女の体位の絵!当時は、客に好みの体位を選ばせていたらしく、それらの絵は、いわばサービス内容を紹介したメニューだったのです。

ポンペイの娼館


さらに、この売春宿の近くの大通りの石畳には、男性のシンボルをかたどったレリーフが残っていますが、なんとこれは、売春宿の方角を示したサイン!ポンペイの町ではこのほかにも、各所でエロチックな絵画に出あうことができます。この地は、人日との生活文化が花開いた場所であるのと同時に、性の文化も咲き誇った場所だったのです。そして、売春宿の奴隷同然の娼婦たちに象徴されるように、人間の身分の差が歴然とここには存在していました。
こうした事実を知ったとき、私は、この町で感じた「赤」のオーラの本当の理由がわかった気がしました。赤は、このポンペイに渦巻いた快楽や欲望、怒り、苦しみの色なのでしょう。「性」と「生」のエネルギーが噴火によって封じ込められ、逃げ場を失ったまま2000年のときを静かに重ねたのです。
ポンペイ――それは私に、時代を経ても変わらない人間の生々しい営みと、業の深さを実感させる場所でした。是非、読者のみなさんも一度この地を訪れて、ドラマチックな古代絵巻に酔いしれてみてください。




繁栄を極めた古代の先進都市ポンペイ

ポンペイの娼館

ナポリの南東約25kmの場所に、紀元前から商業都市として栄えた、ポンペイ。そこは、整然と区画された町並みや、歩道付きの道路が広がる古代の先進都市だった。家々の壁は美しいフレスコ画に彩られ、人びとは現代の私たちと同じように、パン屋でパンを貰い、居酒屋で酒を飲み、ブドウ栽培に従事していた。
町の反映を永遠に停止させてしまった運命のとき—それは、ローマ植民地下にあった紀元79年8月24日の午後1時過ぎにやって来た。この火、町の北西にあるヴェスヴィオ火山が大爆発。三日三晩降り注いだ火山弾や火山灰により、人びとは生き埋めになり、町は埋没してしまった。そして、1600年以上も忘れさられることになる。まだ全体の30%が手つかずという。現在、見学できる遺跡は、神殿や邸宅をはじめ、大浴場、パン屋、居酒屋などさまざま。それらは長い年月、灰の中で守られていたので保存状態がよく、歴史資料として最高レベルにある。ちなみに、噴火が起こった当時の日本は弥生時代で、ようやく鉄器が使われるようになったころであった。


娼婦で性を売る女性たちの哀しみ
売春宿は、ポンペイで約25軒が確認されている。ただし、多くは居酒屋などが兼ねていたもので、専門にみせを構えていたのは一軒だけだった。その宿は、大通リから裏小路に入ったところにある二階建てで、各階にそれぞれ5部屋があり、そこで娼婦が客をとっていた。ポンペイの町は、外界との交易が盛んなところで、絶えず多くの商人たちが出入りしていた。なかには、言葉の通じない異国の者たちもいた。本文で、売春宿の体位の絵や石畳に残る男性のシンボルを紹介したが、言葉がわからなくても、そうした絵柄を見るだけで スムーズに欲望を満たすことができたというわけである。
売春宿には庶民も出入りし、身分の低い男たちも利用していた。彼らを迎えた娼婦はさらに身分が低く、奴隷同然だった。売春の値段はいたって安く、ワイン2杯と同じ値段だったという。彼女たちが、男たちの性の対象としてつらい日々を送っていたことは想像に難くない。




2004年9月「恋運歴」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


ストーンヘンジ(イギリス)


ストーンヘンジ(イギリス)


ストーンヘンジ



何の目的で、誰が造ったのか?謎だらけの太古の巨大遺跡、ストーンヘンジ

みなさんは、「ストーンヘンジ」という名前を聞いたことがあるかと思います。イギリスのロンドンから南西約90kmの草原地帯にある太古の巨石遺跡。宗教儀式に使われた神殿なのか、古代の天体観測所なのか、造ったのは誰なのか……。謎につつまれたこの遺跡を、私は以前から一度この目で見てみたいと思っていました。
ロンドンから現地へバスで向う当日は、あいにくの小雨。晩春だというのに肌寒く、途中の休憩所でコートを購入したほどでした。ストーンヘンジがあるのは、荘厳な大聖堂で知られるソールズベリーの街の郊外。あたりは草原地帯でイギリスらしいのどかな雰囲気にあふれています。

草原の中をバスで走り続けると、やがて彼方に、特徴のある巨石群が見えてきました。写真では何度も見ていますが、実際に見るストーンヘンジの風景は、やはり不思議なものでした。明らかに目的があって造られた人工物であるのに、他の古代遺跡とはまったく違い、人間のにおいを感じさせないのです。周囲の草原とはまったく異なる別世界—それがストーンヘンジの第一印象でした。

ストーンヘンジ


遺跡全体を包むブルーのオーラ、そして薄紫、オレンジのオーラも。
その理由は一体……?


遺跡で見られたオーラも奇妙なものでした。サークル状の遺跡全体は神秘的なブルーのオーラに包まれています。しかし、立ち並ぶ石柱の上部だけはオーラの色が薄紫で、さらに、サークルの中心部を見ると、そこだけオレンジのオーラになっているのです。つまり、ストーンヘンジのオーラは、ブルー、薄紫、オレンジの3種類で構成されています。
直感的に思ったのは、「ここは祈りの場所だったのではないか」といいうことです。というのも、ブルーのオーラに、とても神聖なエネルギーを感じたからです。石柱上部の青紫のオーラには一段と深い神聖さを感じましたが、それはこの場所が祭壇だったからかもしれません。そして、中心部のオレンジのオーラについては、かつてここで火が焚かれた名残のように思えました。夏至や春分など一年の決まった日に、特別な立場にある者たちがここに集い、火を焚き、祭壇に生け贄を捧げ祈祷をする―。
そんなイメージが私の脳裏に浮かびました。
しかし不思議なことに、ここには人間のエネルギーというものが感じられません。では、これを造った者は、一体誰だったのでしょう?何十トンもの石をいくつもこの地へ運び、サークル状に並べ、祈りの場を造り上げる。それが神の所業でないとすれば……。私は、宇宙からやってきた者たちのかかわりを強く感じたのでした。


大英博物館で、憧れのエジプトの神像たちに対面。次回はぜひエジプトへ!

不思議な感覚を抱いたまま、私はストーンヘンジを離れました。帰途には、紀元前にローマ人によって開かれた保養地、バースに立ち寄りました。

ストーンヘンジ

ストーンヘンジ


ローマ時代の浴場跡やゴシック様式の聖堂があるこのまちでは、保養地らしい解放的なムードもあり、ストーンヘンジでとらわれた「一種の緊張感」から、解き放たれていく思いがしました。
ロンドンでは、大英博物館へ足を運んでみました。ここでのお目当ては、充実のエジプト・コレクション。エジプトの神話は、私の専門であるタロット・カードの起源と深く結びついていることもあり、神像たちに会っておきたかったのです。神秘的な神像たちは、エジプトへの私の憧れをかき立てるに十分なもの、次回はぜひエジプトへみなさんをご案内したいと思いました。


世界にはさまざまな名所があり、そこはさまざまなオーラに彩られています。
それぞれのオーラを知ることは、その場所に秘められた歴史のドラマや、いにしえの人たちからのメッセージを知ることでもあります。ぜひ、みなさんも多くの場所を訪れて、神秘のオーラパワーにふれてみてください。




ストーンヘンジ ―約5000年前に起源を持つ、謎に包まれた古代遺跡

ストーンヘンジ

ストーンヘンジは、巨大な石柱が横石を支える構造の石群が、直径約30メートルのサークルをつくっている。さらにその内側にも、巨石が馬蹄形に配置されている。
ストーンヘンジの歴史は、大まかに言って3つの段階を経てきたとされている。初期は土手と堀からなる円形の場所で、約5000年前に一種の集会所として使われたという。4900年前から4600年前にかけての第二段階では、木造の構造物が出現。さらに、遠くはウェールズから運ばれてきた巨石でサークルが造られていった。そして、4500年前から4000年前には、最終的な神殿のような形態になった。現存する遺跡は、およそ3600年前のものといわれている。
しかし、最大45トンもの巨石をどうやってここまで運んだのか?どうして入口の方向が夏至の日の出の方向とピタリと一致しているのか?それらの謎についてははっきりと解明されておらず、宗教施設や天体観測施設など、さまざまな説を生むこととなった。


人類の宝を集めた、世界最大級の博物館「大英博物館」
ロンドンを訪れたら、必ず訪れたいスポットが、大英博物館だ。開館は1759年。しかし、当初は、一日10人程度が訪れる施設にすぎなかったという。博物館のコレクションが充実していった時期は、イギリスが世界に覇権を誇った時期と重なる。18世紀末から19世紀にかけて、エジプト、ギリシア、メソポタミア、西アジアなどの考古学的な遺物が、“贈り物”として、あるいは“戦利品”として、続々博物館へ運びこまれた。そのなかには、フランスのナポレオンの軍隊がエジプトで発見し、イギリスが奪った有名なロゼッタ・ストーンも含まれている。これらの展示品の中には、現在、本国から返還を求められているものも少なくない。
大英博物館で人気があるのがエジプト・コレクションで、エジプト本国以外では最も優れたコレクションとなっている。王や神の石像や鮮やかな壁画などに目を奪われるが、人間のほか、鳥、猫、ワニまであるミイラも興味深い展示物となっている。




2004年12月「恋運歴」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


秘苑(韓国)


秘苑(韓国)




【概要】
昌徳宮の中にある大きな宮殿庭園。
昌徳宮(チャンドックン)は韓国ソウル特別市に所在する李氏朝鮮の宮殿。
園内には多くの東屋や人工池などがあり、韓国造園技術の極致といわれる。
1997年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。地下鉄でも行けるので交通の便はよい。
ソウルで大人気のパワースポット。



2014年の年始は韓国で迎えました。休みを満喫するために、色々なところに足を伸ばしたのですが、その中でも印象に残った秘苑を紹介したいと思います。

それは1月4日のこと。
紅葉の時期に行こうと思いつつ、多忙さからその機を逃してしまった私は、秘苑に出かけることにしました。現地に入る前に、まずは、腹ごしらえということで近くにある、美味しいスジェビ(すいとん)のお店でご飯を食べ待望の秘苑へ。秘苑は昌徳宮の中にある大きな宮殿庭園です。

秘苑

秘苑


秘苑は私が韓国に初めて訪れたときに行った思い出の場所。

秘苑


この荘厳な門は、太宗12年(1412年)、昌徳宮の正門として創建されソウルに残っている木造の二層門としては最古のものだそうです。 しばらく歩いていくと立派な松の樹が見えてきます。

秘苑


ここは【宙合楼】と呼ばれ、現在の図書館になります。その昔は、科挙と呼ばれる官吏登用試験に合格した人達が、勉強する為の場所だったそうです。

秘苑


その左横に芙蓉亭と芙蓉池が見えてきます。

秘苑


ここは王様が釣りをしていた場所との事。
王様はこの場所で釣り糸を垂れ、秘苑の景色を見ながら、何を考えていたのでしょうか?

自分の内面に向き合ったり、潜在意識に語りかけていたのか・・・。
きっとそのような時間を過ごしていらしたのだと思います。

そして芙蓉亭の手前、池の角の少し飛び出た石組みに鯉が一匹浮き彫りされています。

秘苑


魚は逆流に向かって行くときにものすごい力とパワーを出します。
この鯉の姿は、科挙の試験に合格し宙合楼へ登っていけることを象徴したものだと言われています。
また、写真には撮れませんでしたが魚水門から宙合楼までの階段には雲が彫られているそうです。

続いて[暎花堂]です。

秘苑


この場所は本来、王が家臣と一緒にお花見をしたり、詩を詠むなど風流を楽しむ場所でしたが、第22代王正祖の時代からは、科挙の試験場として使用されることになりました。

しばらく歩を進めると石の門が見えてきます。
これは不老門です。
王の息災と長寿の願いが込められた門で、ここを通ると年をとらないという言い伝えがありこの名前がついたそうです。私も健康で長生き出来るようにと願いながら、この門をくぐりました。
その先をさらに進んで行くと六角飛檐造の尊徳亭が見えてきます。
天井には中央に青龍と黄龍が勇ましい双龍が描かれ物凄いパワーを感じました。

秘苑


その横には、観纜亭が見えます。

秘苑


この時代で扇の形をしているものはなかなか珍しく、建設にはかなりの技術が必要だったとの事です。

このように秘苑の中には休憩場所が沢山あります。東西南北で風情が違う秘苑の特徴を活かすように建築されたのだそうです。そしてさらに歩を進めると、大きな岩が見えてきます。

秘苑


これは逍遥岩と呼ばれ、この岩には第16代王仁祖が書いた「玉流川」という字と第19代王粛王の作った詩が逍遥岩に刻まれています。
ここは特に梅雨の季節には、岩に雨水がしみこみ、趣深い光景になるそうです。

さらに進んで行くとこのような民家が出てきました。

秘苑


この民家は王様が民間人の暮らしがみたいとの事でつくられ、海外からの来賓の方が宿泊されたこともあるそうです。
秘苑の中には綺麗な景色や歴史的な建築物、そして、空の雲が見えなくなる位にまでに深い森林があります。仲を散策していると心が洗われるような心境に。やっぱり訪れて良かったと思いました。
今年の秋には秘苑をもう一度訪れて紅葉を堪能したいと思います。


2014.01.15         


ムカーウィル(ヨルダン)


ムカーウィル(ヨルダン)




【概要】
ヨルダンの西部に位置する村。
村の西側の丘には、紀元前1世紀にユダヤ王のヘロデが築いた城塞の遺跡がある。
観光名所のひとつになっているが観光客はあまりいない。
バスを使用するよりも車をチャーターしたほうが訪れやすい。



こんにちは。ステラです。
今日は、先日ヨルダンに行った話しの続きをしたいと思います。
ヨルダンには何度も訪れていますが、毎回発見がある魅力的な国です。

今回の目的地はムカーウィル。
ヨルダンは聖書の舞台となった場所が多いのですが、ここはヨルダン川でイエスに洗礼を授けた人、洗礼者ヨハネの逸話が残る地です。

ヨハネはヘロデ王の結婚に反対したため、ムカーウィルの砦に幽閉されていました。
そのヨハネを快く思わない妻、ヘロテアの娘サロメがヘロデ王の前で見事な舞を見せます。
喜んだヘロデ王はなんでも欲しいものを与えようと言うと、サロメが望んだのはヨハネの首でした。
この逸話はオスカー・ワイルドの戯曲としても有名です。

ムカーウィルは車をペトラ方面へ走らせマダバの南西約20キロメートルに位置しています。

そこまでの道のりは延々と続く砂漠地帯。

ムカーウィル


ずっと同じ風景を見ていると、いつのまにか夢見心地に。

ムカーウィルに到着する手前の1km前で運転手さんがステラさん、ここですよ!と声をかけてくれました。

ムカーウィル


はっと気づいて見回しましたが、周囲には誰もいません。

観光地なのに無人なのが不思議でした。
運転手さんに尋ねると、ここには韓国人や日本人、アジア人はたまに来るけれどヨーロッパ人、アメリカ人は誰も来ないとのこと。
目の前にあるのは小高い丘、ただそれだけです。城塞の跡のようなものもあるようですが、なんだか寂しい場所です。 紀元前1世紀にムカーウィルというお城が建てられたそうですが、なぜこの土地に、と不思議でたまりません。 栄えていた姿がまったく想像できないのです。

運転手さんの説明によると車で行けるのはここまで。
あとは、あなた達がここから歩いて山を登らなければいけない、と言われました。
山の上り下りには、往復で1時間がかかりますが、どうしましょうと尋ねられました。
私は考えた末、山に登らず車の中から写真を撮ることにしたのです。

これがムカーウィルの小高い丘です。

ムカーウィル


そこからまた車を走らせペトラへ方面へ。ムカーウィルから約3時間走ってショーバック城に来ました。

ムカーウィル


ここは、1099年に十字軍がエルサレムに訪れヨルダンに進出する足掛かりとした場所です。

ムカーウィル


ここは、アンマンから南に約100キロ行ったところにあるカラクという場所の近くにあります。
そこで車から降りると一人の男の子がロバに乗って佇んでいまいた。

ムカーウィル


その光景が周りの背景とあまりにもピッタリだったので思わず写真を撮ってしまいました。

誰もいない場所に、ひとり佇んでいる少年。

どうしてここにいるのか?
これからどこにいこうとしているのか?

言葉が通じないため、話しかけることができません。
ただ、その少年の奥深い瞳の煌めきが、この景色以上に心に残ったのでした。


2013.09.26         


エレファンタ石窟群(インド)


エレファンタ石窟群(インド)




【概要】
ムンバイ近海のアラビア海に浮かぶエレファンタ島にある岩山を掘ったヒンドゥー教の石窟寺院。
シヴァ信仰の中心地で、5~8世紀、グプタ朝時代に建設が始まったとされる。
世界遺産となっており、観光客にも人気のスポットとなっている。



今回はインドのパワースポットの話をしたいと思います。私が海外に行くときは大抵、ビジネス絡みなのですが、今回もまず仕事を終えてからパワースポットに向かうことになりました。
早速、自由になった朝、プールサイドで朝食。実に優雅な気分です。

エレファンタ石窟群


そして向かったのが、エレファンタ石窟群があるエレファンタ島です。

エレファンタ石窟群


世界遺産にもなっているので観光客に人気があり、船乗り場には人がいっぱいです。

エレファンタ石窟群


人混みをすり抜けて前に並んだので、何とか早めに乗船することが出来ました。
船が動き出すと同時にある商人が土産品を売りに私達のところへ…。値段のやり取りをして買い物を楽しみ、ようやくエレファンタ島に到着しました。

エレファンタ石窟群


エレファンタ石窟群を目指して階段を汗だくになって登り、やっとのことで辿りつきました。

エレファンタ石窟群

エレファンタ石窟群

エレファンタ石窟群


エレファンタ島は石窟遺跡でヒンドゥー教のシヴァ神を祭っています。
シヴァ神は破壊と創造を司る神様です。
石の壁画は見事なできばえで、アンコールワットの壁画にそっくりでした。

写真はエレファント島のお土産屋さんです。

エレファンタ石窟群

エレファンタ石窟群


じっくり壁面を見ながら、シヴァ神に纏わる数多くの物語を頭に思い浮かべていたのでした。

最終日は飛行機に乗るまでまだ時間がたっぷりあったので、
友達と一緒に馬車に乗って市内を回ることにしました。
約40分で600ルビーだと、日本円で約1400円位です。
ただし、お金をはらったときの相手の喜びようをみて、高い金額でOKしてしまったことに気づきました・・・。

エレファンタ石窟群


さて、市内観光を終え、タージマハルホテルの最上階へ。夜景がとっても綺麗で、思わずうっとり見とれてしまいました。

エレファンタ石窟群


毎日、毎日、部屋でゆっくりする時間もなく、スケジュールがびっしりと詰まっていましたが、インドのビジネスや市場、文化、世界遺産など、短い中で色々と知ることができ、素敵な旅でした。


2010.04.27         


エレシウスの遺跡-ダフニ-ポセイドン神殿-デルフォイ(ギリシャ)


エレシウスの遺跡-ダフニ-ポセイドン神殿-デルフォイ(ギリシャ)




【概要】
◆エレシウスの遺跡
古代ギリシャのアテナイに近い小都市。
ギリシャ神話に登場する女神デメテルの祭儀のあった場所として知られる。
◆ダフニ
アテネ近郊にあり、ビサンティン建築のダフニ修道院がある場所として有名。
◆ポセイドン神殿
アテネの南方約60kmにあるスニオン岬の突端に建つ古代神殿。
海の守護神ポセイドンを祀っている。
◆デルフォイ
古代ギリシャのポーキス地方にあった都市国家で、パルナッソス山のふもとにある。
アテネから北西へ約170kmのところにあり、観光の人気スポットのひとつ。



ちょっと前の話にはりますが、ギリシャを訪問したときの話をします。
ギリシャはとにかく景色が美しい素晴らしい国でした。
多くの場所に出かけた中で印象に残った場所を厳選して紹介致します。

まずはエレウシスの遺跡です。

エレシウスの遺跡


ひっそりとしていて人もまばら。
みなさまもあまり耳にしたことがないかもしれません。
観光地としては知名度が低いため、観光客としてここを訪れる人は、ほとんどいないそうです。

エレシウスの遺跡


紀元前1000年前、ここで古代密儀が行われていたとされています。
別名、デメテルの秘儀とも言われ、内容を語ることが許されなかったため、実際になにを目的に行われていたからはっきりとわかりません。

エレシウスの遺跡

エレシウスの遺跡


ギリシャ神話の大地の女神デメテルとハデスにさらわれた娘、ベルセフォネを黄泉から取り戻す話しが基盤とした秘儀ではないかと言われています。
キリスト教が広まり、ローマ皇帝テオドシウス1世により多神教的異教の祭儀が禁止されると、密儀はなくなったそうです。
大地と収穫の女神デメテルのことを考えながら散策していると、道端に変わった花を見つけました。

エレシウスの遺跡

エレシウスの遺跡     エレシウスの遺跡


ローマ時代のハドリアヌスもここで密議を受けたと言われています。
私も瞑想をし、はるか昔へと意識を飛ばしたのでした。

続いてダフニという町へ移動しました。

ダフニ


アテネから西11キロの地点にあり、ビザンチン時代のダフニ修道院のモザイクの天井画で有名なところです。
現在は中央聖堂しか残っていませんが11世紀のモザイクが残っている重要な場所です。
1990年にユネスコの世界遺産に登録されています。

ダフニ

ダフニ


しかし1999年の地震により、現在修復中。
そのため見学には人数制限があったのですが、 ラッキーなことに中に入ることができました。
モザイクの修復中のため足場が作られていたので、天井の近くまで登ることができ感動です。

ダフニ     ダフニ

ダフニ


さて、松の木に覆われているダフニという町の名前ですが、その由来は…昔、アポロン神に愛され、追いかけられてゼウスに頼んで月桂樹の木に変えてもらった水の妖精ダフネからその名が付けられたそうです。
ギリシャ神話に出てくる神様たちは大胆な物語が多いですね。

続いてポセイドン神殿です。
ここを訪れたときは天気が最高でした。見てください。この笑顔。

ポセイドン神殿


青い海は目が痛くなるほどの綺麗さに吸い込まれそうな感じです。
このまま日本に帰りたくないとすら思ってしまいます。
岬の先端にポセイドン神殿がありました。
この神殿は、アテネから約70キロほど離れたスーニオ岬の突端に立っています。
海の神、ポセイドンに捧げられたものとされています。

ポセイドン神殿

ポセイドン神殿


おとぎ話のような雰囲気の場所です。
ギリシャは歴史が深く、神話や伝説が数多くの残る神秘の国です。
大自然に抱かれながら、この地を回っていると、神話の神々の存在を感じるような瞬間もありました。

続いてデルフォイの紹介です。
デルフォイは古代ギリシャのポーキス地方にあった都市国家で、パルナッソス山のふもとにあります。
この地は、古代ギリシャ世界においては世界のへそ(中心)と信じられており、アポロン神殿で下される「デルフォイの神託」としても知られています。

デルフォイ


船を降りてから、バスで3時間走り、コリンティアコス湾を望むパルナソス山の中腹にデルフォイがあります。
ここに至るまでは船の上で、エーゲ海の癒やしエネルギーをもらいリラックスしていましたが、ここに足を踏み下ろした途端、今度は大きな力のエネルギーを感じました。

デルフォイ


古代ギリシャでは大地のへそとして、世界の中心と考えられていたデルフォイ。
紀元前2000年頃、大地の女神ガイアが大蛇ピュトンに守られた洞窟で神託を行っていたという伝説が残っています。
ミケーネ時代の終わり頃、ゼウスの息子アポロンがピュトンを矢で殺して神殿を建て、巫女ピュティアの身体を借りて神託を授けるようになった。
その後デルフォイは神託を受けに訪れる人が世界中からの巡礼者の絶えない地となったとされています。

デルフォイ


これはアポロンの聖域の中にある世界の中心としてある大地のへそ。
ただし、これはレプリカです。

デルフォイ


本物は博物館に置いてあります。下の写真が本物です。

デルフォイ


へその周りには麦のようなものが全体についていました。
続いて神託が行われていたというアポロン神殿へ。
ここは紀元前4世紀頃の建築で、5000人を収容する客席を持つ劇場があります。
音楽と文芸の神アポロンにちなんだ演劇や音楽を中心とした祭典ピュティ祭が始まったところだそうです。
写真を撮り忘れたのが残念ですが、やはり神話そのものの美しい場所でした。


2009.08.06         


ペトラ遺跡(ヨルダン)


ペトラ遺跡(ヨルダン)




【概要】
ユネスコの世界遺産に登録されているヨルダンにある遺跡。ヨルダンの首都アンマンから190kmほど南の山岳地帯にある。紀元前後にアラビア系遊牧民のナバテア王国の首都として、また通商の中継地として繁栄したが、その後海路の発達により衰退し、7世紀には歴史から完全に消え去った。遺跡の発見は19世紀になってから、謎の多い遺跡として観光客の人気を集めている。



私がとても行きたかったパワースポットがあります。
それは中東にあるペトラ遺跡です。

私はいつも同じ夢を見ます。
岩の中に、十字架をもじった洞窟があります。そしてその中に自分がいるのが見えるのです。
いったいここはどこなのだろうと、夢の記憶を頼りに絵を描いてみました。するとその後、また同じ夢を見ました。そして夢の中で「ペトゥー」という声を聞きました。
私の周囲の人に聞いてみると、それは中東のヨルダンの首都のアンマンの近くにあるペトラではないかということが判明。
それを知ってから約一年半。ずっとペトラ遺跡に行きたいと思い続けてきました。
そして仕事の都合で中東に行くことになり、ついにペトラ遺跡に行く機会が与えられたのです。
あの夢の光景を実際に見られるのだ、そう思うと、いてもたってもいられませんでした。
仕事で訪れたヨルダンでまずは用事を済ませ、早速ペトラ遺跡へ。
この岩の遺跡。確かに夢でみた通りです。私の胸は高鳴りました。
まず、あのインディージョーンズの最後の聖戦の舞台になった場所であるエル・ハズネ(宝物殿)に向かいました。

ペトラ遺跡


「宝物殿」とよばれる名前の由来は一番上に乗っている壺の中に、宝物が隠されていると信じられていたことから来ているそうです。

ペトラ遺跡


観光客は、らくだの馬車かロバに乗っている白人ばかりで、日本人はほとんどいませんでした。

ペトラ遺跡


遺跡は広く、歩けど歩けどなかなかメインのエル・ハズネに到着せず、約40~50分歩いた後、やっと到着です。

ペトラ遺跡


しかし、仕事の後の僅かな休みを使っての駆け足観光であったため、あっという間に帰る時間に。
この先にあるライオンの泉を見に行けずに残念でした。
次回は絶対、仕事抜きのプライベートで来る予定です。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡


そしてここでは、霊の魂、霊が沢山飛んでいたので、通訳の人にうらめしやの幽霊のポーズで伝えると、周りにいた英語のわからないアラビアの人達もこのジェスチャーだけで解った様子!聞いたら、何とここはお墓だとのこと、どうりで、と納得しました。

そして疲れたのでカフェでお茶タイム。
そこで銀細工の女性職人を紹介されました。たしかに素晴らしい作品の数々。
早速、ブレスレットを購入。

ペトラ遺跡


でも、別の場所に行ってみたら、どこでも売られている商品でした。観光地ではよくある話です。
そんなこともありましたが、このヨルダンの人はみんな親切で治安はとてもよいところでした。
次は観光メインで訪れたいと思っています。


2010.10.18         


ネボ山~死海(ヨルダン)


ネボ山~死海(ヨルダン)




【概要】
現在のヨルダン西部に位置する海抜817mの高い尾根。山頂からは、聖地の全景と、北にヨルダン川渓谷の一部が展望できる。モーゼの終焉の地としても有名。聖書では、神がイスラエルの民に与えられた約束の地を、ヘブライ人の預言者モーセに眺望させた場所がこのネボ山とされている(申命記32章49節)死海はヨルダンとイスラエルの間にある塩水湖。塩分濃度が高く、人が湖につかると、特に手足を動かさなくても、自然に体が湖面に浮き出てくる。ミネラルの高い海水での療養を求めて、欧州からも観光客が訪れる。



私は仕事の関係でアジアを中心に世界を飛び回っています。そして海外を訪れると必ず足を運ぶのがパワースポットです。今回はヨルダンを訪れたときの話をしようと思います。
死海のあるヨルダンの首都アンマンは、エジプト、シリア、そしてイラクに囲まれています。世界の経済の中でも非常に微妙な位置にある町です。そのアンマンで、私は6日間の仕事を終え、ようやく休暇になりました。
早速出かけようと思ったのはモーゼの終焉の地として有名なネボ山、そして死海です。道中は砂漠で、見渡す限り砂、砂、砂・・・。そしてようやくモーゼ終焉の地とされるネボ山へ。

ネボ山については旧約聖書の出エジプト記の「十戒」に出てくるモーゼが導いた約束の地です。
私はこの地を訪れることによって、何を感じることが出来るだろうかととても興味を持っていました。
モーゼは知恵者で、全ての秘儀を教えてくれる存在です。
タロットカードに例えるなら隠者です。

隠者


私は小学校5・6年生の時に【十戒】という映画を見て、子どもながらに非常に感銘をうけたことを覚えています。その記憶の場所に到着すると思うともう、心はワクワク感でいっぱいです。
砂漠の中をさらに30分ほど走り、ようやく到着です。
着いてみると「ここが?」というぐらいにひっそりとした丘でした。その丘のゲートをくぐるとこのモニュメントが建っています。

ネボ山~死海

ネボ山~死海


そこを通リ過ぎ、アーキオロジカル・パークという場所に入ると綺麗なモザイクが飾ってありました。
一部を紹介します。

ネボ山~死海


その横の聖処女教会は残念なことに工事中でした。
そこを通リ過ぎると十字架に知恵を表すヘビの形をしたこのオブジェが現れます。

ネボ山~死海


ここは2000年前にはその時のローマ法王が、そして近年ではヨハネ・パウロ2世も訪れた場所です。
私はヨハネ・パウロ2世が亡くなる半年前、バチカンでお会いすることが出来ました。何かもの凄く縁を感じ、このマダバの道を歩きました。彼はどんな想いでここを歩いたのでしょうか。

そして、ここが<モーゼの約束の地>と言われた場所です。

ネボ山~死海


この場所にモーゼが立ち、ヨルダン川の東を指差して「あれが約束の地」だと言ったことが旧約聖書の出エジプト記にも書かれています。私はその場所に立った瞬間、まるでタイムマシンにでも乗ったかのように、過去に戻ったかのような感じがしました。なんともいえない不思議な感覚です。
もっとその感覚を味わいたかったのですが、すぐに死海のホテルにチェックインしなければならなかったため、この地をすぐに離れなければならなかったことが、私にとっては寂しく、そしてとても残念でした。

その後は真っ直ぐに死海へ

ネボ山~死海

ネボ山~死海


まずはモービックというホテルにチェックイン。

ネボ山~死海

ネボ山~死海

ネボ山~死海

ネボ山~死海


ホテルの部屋から見た、死海に沈んでいく夕陽はとても幻想的。最高のサンセットでした。
ロマンチックな気分に浸った後は、女性陣は死海にて泥パックでお肌のケア。無料のエステです。
もっとのんびりしたかったのですが、もう夜です。もっと時間が取れれば明日も泥パックを楽しめたのですが、スケジュールの都合で死海に滞在できるのはほんの僅か。
夕方5時のチェックインに朝の10時にチェックアウトという強硬スケジュールです。

とにかく死海にだけは入ってみようということで翌朝6時30分頃、死海の海へ…。

ネボ山~死海


私は水着を持ってきていなかったのでT-シャツに短パンで入水です。
これを見て下さい。

ネボ山~死海


この死海の塩が岩にこんなにくっついています。
ちょっと舐めてみたのですが、しょっぱさを通リ越して苦味を感じました。
想像以上だなと思いながら、もっと深くまで進みます。体が浮きすぎちゃって、ちょっと変な感じです。
この死海にはミネラルがたっぷり含まれているので、アトピーや病気の治癒にはよいとされ、一か月ほど療養される方も多いのだそうです。特に、オーストラリアやカナダ、ヨーロッパから来ている人が多いと聞きました。
日本でいう温泉療養のようなものですね。
私もすっかり癒され、死海を後にしたのでした。


2010.10.18