オマーン(ヨルダン)

 

ステラ薫子の不思議な話
ヨルダンで出会った「夢の風景」

〈ヨルダン〉

 

私はイマジネーション豊かなのか、訪れる場所で不思議な感覚に陥ることもあるのですが、夢でも何かのお告げかと思うようなものを見ることが多々あります。今回は、2017年に訪れたヨルダンでの不思議な体験をお話しします。

 

|ヨルダン・オマーン~フランキンセンスの香りを求めて〜

歴史と癒しを堪能したヨルダンから、オマーンへ。
ここオマーンでの旅の目的は、精油『フランキンセンス』。
世界最高クラスともいわれる、産地なのです。

以前にオマーンを訪れた時に出会った、ボスウェリアサクラ種のフランキンセンスの香りに魅せられ、以来、こちらから輸入して、私がファウンダーをつとめるコスメブランド「BARAKA」で取り扱っています。


このフランキンセンスは、イエスキリストが誕生したとき、東方の三博士が贈ったとされる、聖なる香り。とても精神が安らぐ香りで、私のお気に入りの香りの一つです。

オマーン第二の都市である、アラビア半島の港町サラーラが、この世界最高クラスのフランキンセンスの郷と言われています。

こちらではまず、フランキンセンスの博物館を訪れてみましょう。
フランキンセンスだけでなく、オマーンの歴史や文化についても、知ることが出来ます。

その後、自生するフランキンセンスを見に出かけましたが、ここからは渓谷なので、コーディネーターと共にタクシーで移動。
個人で訪れる際には、気をつけてください。

 

|砂漠のなかに現れた、フランキンセンスの木

他の植物があまりない景色の中、力強くたたずむその姿に、生命力を感じます。降り立った時、「以前ここに来たことがある」というデジャブのようなものを感じ、あらためて何か深い縁のようなものを実感しました。

フランキンセンスの花は、小さく可憐。

同じ木でも、採れる樹液が白いものから赤茶のものまであり、白いもののほうがランクが上なのだとか。
この樹液が固化したものが、フランキンセンスの乳香です。

品の良い甘みを感じさせる、深い香りが特徴で、心を落ち着かせてくれます。
何千年も前から、女性の魅力を高め、癒してくれたその香りを、日本の女性にも伝えたいと思っています。

ぜひ、私が直接選んだ香りの数々を、一度お試しください。
興味のある方は、『BARAKA』のホームページを見てみてくださいね。

 

実はこの旅では、もう一つ奇跡のような出会いが!

ある建物の前でスタッフと相談していたところ、現地の人に話しかけられたのですが、よく聞いてみるとフランキンセンス工場の社長さん!

日本からきたと話すと、すっかり仲良くなり、普段は見ることが出来ない工場内部まで見学させて下さり、ぜひ一緒に仕事しましょうと握手をしました。今後のさらなる広がりを感じた、実りある旅となりました。

 

|夢のお告げに導かれて…

私はイマジネーション豊かなのか、訪れる場所で不思議な感覚に陥ることもあるのですが、夢でも何かのお告げかと思うようなものを見ることが多々あります。

実は、ここオマーンを訪れる前にも、黄金に輝く砂漠の中、たたずむ一本の木の夢をみました。
神の木といった、荘厳なイメージを強く覚えています。

この時も、呉れゆくフランキンセンスの郷を眺めながら、なんとなく来たことがあるような気がしていたのですが、後ほど撮った写真を見てびっくり。
夢と全く同じ構図の、神々しいフランキンセンスの写真があったのです。

デジャブの正体は、この夢だったのかもしれませんが、何かもっと深いところで呼ばれてきたような、そんな気がした旅でした。

日本にはないこの景色。
砂漠の中の、生命力あふれる木々を眺めるだけでもパワーがもらえる、そんな土地です。

ステラ薫子のフィルター越しの世界(ヨルダン)

 

ステラ薫子のフィルター越しの世界

〈ヨルダン〉

 

私がカメラのフィルター越しに見たヨルダンをこちらで紹介いたしましょう。

 

|デッド・シー(死海)

ビジネスから始まったヨルダンへ、初めて自分自身で「行ってみたい」と感じたきっかけになった場所です。

マグネシウムがとても多いため、自律神経も和らぎ、死海から上がってくると、とても眠くなります。

美容液など必要ないほど、体はすべすべでつるつる。自分の肌がこんなに綺麗だったのかと思うくらい、翌日も持続します。

一度で、このデッド・シーの虜になることでしょう。

 

|ペトラ遺跡

エルハズネという、映画インディ・ジョーンズの舞台にもなった遺跡。峡谷・シークを抜けたその先に、突如として現れるその姿は、何度見ても、そのパワーに圧倒されます。
モン・サン=ミッシェルもそうですが、それが見えるまでの道のりや、見え方などが自然と演出されているのか、写真より現地で見た方が何倍もパワーを感じる、ぜひ一度は行くべきパワースポットたちは、その姿が目に入ってくる時にまず、大きな感動を覚えます。

紀元前1世紀以降には、乳香、没薬、などで活躍していたナバタイ王国。
岩山で生活し、そこにお墓も作っていましたが、ここエルハズネは、宝物殿です。
1万年前から人が住んでいた遺跡がみつかったりと、不思議な場所です。

ペトラ遺跡(ヨルダン)

 

ペトラ遺跡
願いが叶う場所

〈ヨルダン〉

 

皆さんご存知、映画『インディ・ジョーンズ』に出てきた場所でもある、ペトラ遺跡。

もちろん世界遺産でもあり、新・世界七不思議のひとつにも数えられる、時がとまったような見事な遺跡が見られる場所です。
この遺跡を回ろうと思うと、3日は必要だと思います。
「次に行くときには、すべて見てやろう!」と思うのですが、いまだ叶わず。いつか叶えたい、野望です。

 

|ペトラの歴史

ペトラは、交易の中心として栄えていた、ナバタイ族の街。
そして、二世紀にはローマ帝国に支配されてしまうものの、363年に大地震に襲われ、壊滅的な打撃を受けてしまい、次第に人が住まなくなるにつれて、いつしか忘れられた街となっていきました。
1812年に、スイス人探検家により発見されるまで。

街には、ナバタイ人にとっての神々が記されている遺跡が色々とみられます。彼らは神の姿を具体的に表すのではなく、二つの目だけを彫り込んだりしています。

上の写真は、ナバタイ人の主神『ドゥシャラー』と、女神『ウッザー』のステラ(石柱・石板)で、シーク(後述)にあるものです。
ナバタイ人は、神が石やステラに宿るように、人間の魂も死後ステラに宿ると考えていたようです。日本の墓石などにも通じるものがあるのでしょうか。
岩窟墓をはじめとして、たくさんの遺跡が、本当に奇跡のように残っているので、ぜひその目で色々と確かめてみて下さい。

 

|インディ・ジョーンズの舞台となった、エル・ハズネ

遺跡である街全体が、かつて人々が暮らしていたところでもあり、お墓となっている場所ですが、その中にあるのが、まさしくインディ・ジョーンズの舞台となった、エル・ハズネ。ナバタイ帝国最盛期の王、アレタス4世により建設された、壮大なお墓なのです。

エル・ハズネへと続く峡谷・シークのところで、私が訪れた時のガイドさんは、こう言いました。

「みなさん、後ろ向きに七歩歩いてください。
目を瞑って、11数えたら目を開けます。
その時にあなたの願いが叶います。一つだけ唱えましょう」

そして振り向いて目を開けた瞬間。
目の前に広がるのは、圧倒的なスケールのエル・ハズネ!

その姿がいきなり目の前に広がるその時、ものすごいエネルギーを感じます。
私でなくても、文明が生きていた時代を感じることが出来るのではないでしょうか。
まさに、その時にタイムスリップしたかのような、壮大な景色が広がっています。
ちなみに、エル・ハズネに直接陽が当たるのは、9時~11時頃です。
この時間帯に行くと、さらに荘厳な雰囲気を感じることが出来るでしょう。参考にしてください。

 

|この場所でしか出会えない感動こそ、旅の醍醐味

ローマの遺跡や、ヨーロッパの教会といったものとは全く違う、自然の岩に彫刻を施して作り上げたその遺跡は、みごとというほかありません。
どうしてこのような壮大なものを作り上げることが出来たのかと、胸が高鳴ります。ここペトラでしか感じることが出来ない、エネルギーと力だと思います。

ヨルダンに行くなら、絶対に訪れたほうが良い、そう思う場所です。叶うなら、ペトラで宿泊して、ゆっくりと観てください。ナイトツアーも開催されています。この夜のペトラ…私は少し苦手だったのですが、あなたはいかがでしょうか。

ぜひその目で、耳で、心で、この唯一無二のパワースポットを感じてください!

デッド・シー(死海)(ヨルダン)

 

デッド・シー(死海)
究極の癒しを求めて

〈ヨルダン〉

 

ヨルダンという国の名前を聞いて、どのような印象をお持ちになるでしょうか。今はテロや、アメリカの問題などで、なかなか行こうと思う人は少ないでしょう。

最初に訪れた2007年から始まり、ヨルダンへの旅はもうすぐ10回を数える程、ヨルダンには何度も訪れています。「運命を変える旅」として思い出深いこの地のお話をいたしましょう。

 

|旅のきっかけとヨルダンという国について

最初のきっかけは、ヨルダンの国から頼まれたビジネスの話。ある事業の、日本とヨルダンのパイプ役をお手伝いすることになったのが始まりでした。

ヨルダンという国は、人口650万人のとても小さな国ですが、中東の中では、とても重要な位置にあります。

ただ、近隣のほとんどの国は石油が発掘されとても裕福ですが、ヨルダンという国には石油が無いのです。

ヨルダンの数少ない宝が、デッド・シーと、ペトラ遺跡なのだというお話があり、気にはなりました。しかし最初にヨルダンを訪れた時は、デッド・シーは色々案内して頂いた中のひとつで、「ふーん、これが死海か・・・」ぐらいにしか思いませんでした。

 

|ガン闘病中に再度出会った「ヨルダン」

ガンを患っていた2011年~2012年頃、私の体を心配した友人が、「デッド・シーの塩を入れて入浴しなさい」と勧めてくれました。

まじめに続けていたところ、なんと抗がん剤の副作用である吐き気やだるさなどがものすごく軽減されたように感じました。

これはすごいと感動したときにふと、「そうだ、これはヨルダンの塩なのだ」と、私の中で繋がりました。
そこで初めて、今度は自ら『行きたい』という気持ちからヨルダンを訪れることになります。

 

|デッド・シー(死海)の魅力

かつらを被りながら訪れた3度目のヨルダン。仕事ではなく、デッド・シーというものにフォーカスした旅が、そこから始まりました。

デッド・シーには、豊富なミネラル分が近郊の温泉から流れ込み、塩分濃度は30%。海抜マイナス420mという最も低いところに位置しています。

その昔、私が心惹かれてやまないクレオパトラや、ユダヤの王ヘロデも魅了されていたといわれ、クレオパトラの美しさの秘密は、デッド・シーにあったのだという話が、私の頭にも残っていました。

死海の取り合いで、戦争まで起きたこともあるとか。

また、アトピーや自律神経の緩和、セラピー効果が高く、2~3週間滞在しながら、デッド・シーセラピーを受けている人が多いとか。
さながら、日本の湯治といったところでしょうか。

 

|実は難しい…デッド・シーの入り方

皆さんも、知識として、塩分濃度30%という死海は、プカプカと浮く体験が出来るということはなんとなくご存知でしょう。

ですが、その浮き方は、普通の海で浮く感覚とは、全く違っています。

いきなり歩いてバシャバシャと入って行く人が、その強烈な浮力に、はじかれるように顔からつんのめったり、視界がぐるっと変わってしまうほどひっくり返り、半ば溺れるように、制御不能な状態に陥ってしまう姿を何度も見ました。

いきなり顔がつかると、デッド・シーの水が耳や目、口に入り、それはもう、普通の海の比じゃなく、しょっぱくて痛くて大変です。
失敗しない入り方をご紹介しておきましょう。

 

|初めての方でも失敗しないデッド・シーの入り方

まずは浅瀬で、泥を全身に塗ります。顔にも塗ります。
そうして5分間ほど、泥が乾くまで待ち、泥がカチカチになった状態で、デッド・シーに入って行きます。

デッド・シーは実は岩場なので、靴は必須です。つま先やサイドも覆われた、マリンシューズがオススメですが、サンダルでも良いので用意しましょう。

ひざ位までの水位のところまで歩いてゆっくりと入ります。

水がひざまできたら、しゃがみつつ、ひっくり返る感じで上を向き、肩や背中の力を抜き、足でスーッと蹴るように、浮いて進みます。15分ほど、プカプカと漂ってみましょう。

 

|ステラ薫子流「デッド・シーでの過ごし方」

私のデッド・シーでの過ごし方は、朝日と共に起きて、朝食の前、6時くらいからオープンするデッド・シーに向かいます。

その後は昼食後。

午後は比較的暑いので涼しい場所で過ごし、また、夕暮れ時に入るのです。

多い時は1日3回、15~20分くらいを目安にと言われる中、私は毎回40分くらい浸かってデッド・シーに癒され、身も心も文字通りピカピカつるつるに軽くなって、帰国するのです。

また、ここ、死海のエリアは、標高が低いため酸素が濃く、死海から2メートルくらいは天然のUVカットといった状態で、日焼け止めも必要ありません。安心して、泥パックして、浮かんでください。

 

|オススメの季節

気候も温暖で、一年中気持ちよく滞在出来ますが、12月~1月はやや肌寒いです。

欧米に住む人は慣れているのか、平気で死海に入って行きますが、日本人には寒いかもしれません。

また、夏場はハエが大量に発生するので、テラスでの食事など出来たものではありません。やはりオススメは、9月~10月、ベストは11月、2月といったところでしょうか。中東というと、ラマダンの時期に行くとお店がやっていないということも多いですが、ヨルダンは大丈夫です。

 

|デッド・シーへの行き方

東京からは、まず成田や羽田からドバイへ。そこで乗り換えに3~4時間かかります。

そこから3時間かけてアンマンへと到着したら、さらにバスやタクシーで死海周辺のホテルまで向かいます。

東京を出て、なんと22時間ほど。およそ1日かかるということですね。
日本人がまずヨルダンまで行こうと思えないのは、この距離感もあるでしょう。

また、いかに旅慣れた人でも、個人で手配するのが難しい場所でもあるので、何らかのツアーに参加するほうが良いでしょう。

それもまた、高額だったり、あまり選択肢がなかったりと、初めての場合には行きたい場所や時間の使い方に満足出来ずに終わってしまうかもしれません。

しかしここには、それを超えた別世界の癒しが待っているのです。

叶うなら一度、現地で死海に浮いてみて頂きたいと思います。

ルクソール(エジプト)


ルクソール(エジプト)


ルクソール



古代エジプトの首都として繁栄をきわめたルクソール

タロットカードとのかかわりも深いエジプト文明に、私は大きな興味を抱いてきました。そんな私が、カイロとともに訪れたかった都市が、ルクソールです。カイロからナイル川沿いに600km南になるルクソールは、かつて「テーベ」と呼ばれ、新王国時代(紀元前1570年頃~1090年頃)のエジプトの首都として栄えました。ナイル川をはさんで両岸に古代の王ゆかりの遺跡が多数残り、エジプトを代表する遺跡の街として多くの観光客を集めています。

ルクソールには2つの顔があります。ナイル川の東岸は生者の街と呼ばれ、巨大な神殿があり、今も人々の活気にあふれた暮らしがあります。一方の西岸は死者の街「ネクロポリス」と呼ばれ、荒涼とした岩山がそびえます。人々は、太陽の沈む西方にはあの世があると考え、王や貴族の墓を西岸の山の手に造りました。先のカイロでは、ピラミッドのスケールにまず圧倒されましたが、ここルクソールの遺跡では、そのスケール感もさることながら、私の心により深く訴えかけるものを感じました。
そんなルクソールの街を、西岸、東岸とに分けて紹介します。


ファラオの墓が多数造られた聖なる場所「王家の谷」へ。

ルクソール


ナイル川西岸では、まず「王家の谷」へ。トトメス3世、ラムセス1世、ツタンカーメンら新国王時代のファラオや貴族の墓が、現在までに60ヶ所以上、地上から発見されている場所です。それらの墓のうち、現在、十数ヶ所が公開されています。

ルクソール


ここは、王の墓のありかといっても、白っぽい岩山が連なるまったく殺風景な場所。なぜ、このような奥深い不毛の地に、大切な王の墓が造られたのか?また、地表には何の建造物もないのか?そのわけは、盗掘を避けたためにほかなりません。しかし、ほかの地域の王や貴族の墓同様、この王家の谷の墓も、金銀財宝を狙う盗人たちの侵入を防ぐことは出来ず、ほとんどの墓が略奪を受けてしまいました。そんな中唯一、略奪を免れた墓があります。それが、有名なツタンカーメンの墓です。

ツタンカーメンらの墓のある丘へは、王家の谷の入口から小さなカートに乗って往復します。私は、同行の友人たちとカートに乗って谷の奥へと近づいていきました。すると、前方に見える小高い丘の上に、薄紫色とオレンジの色の高貴なオーラが広がっていました。そのオーラの発する源に、ツタンカーメンの墓はありました。


プラスのエネルギーを感じたツタンカーメンの墓

ツタンンカーメンの墓は、「ここが王の墓所?」と思えるほど、とても小規模なものでした。地表から階段を下りると、前室などを経て、石棺が安置されている玄室へとたどり着きます。ここには、今もなおツタンカーメン王のミイラが安置されています。このよな場所を訪れると私はよく胸が締め付けられるような感覚を覚えるのですが、なぜか、このときは不快な気分にはなりませんでした。頭をなでられているような感覚があり、同時に「ようこそ」と言われているよな、どちらかといえばプラスのエネルギーを感じたのです。

18歳で亡くなったツタンカーメン王。その死因は、暗殺とも、負傷がもとになっての感染死とも言われていています。しかし、私が彼の亡がらを前にして直感したのは、「彼は決して前世に恨みをもっていない」ということです。彼はエジプトを統治する希望に燃えた日々を送り、そして、そのときの気持ちのままに、自らが死んだことにも気づかず、今もここに横たわっている……。
そんな気がしてなりませんでした。


エジプト初の女性ファラオ、ハトシェプスト女王の葬祭殿

ルクソール


ナイル川西岸で見逃せないスポットに、「ハトシェプスト女王の葬祭殿」があります。ハトシェプスト女王は、エジプト初の女性ファラオで、紀元前1500年頃即位しました。女王が、父トトメス1世と自らに捧げて、岩山の崖を背景にした場所に造営したのが、この葬祭殿です。巨大な葬祭殿は、女王の死後の復活の場であるとともに、彼女の業績を後世に伝えるモニュメントでもありました。

ルクソール


葬祭殿の内部の壁や柱には、色彩豊かな壁画やレリーフが残されています。しかし、それらの中で女王の姿を描いた部分は、すべて削り取られてしまっています。これは、ハトシェプスト女王に恨みを持つトトメス3世が、前王であるハトシェプストの肖像を排除したためです。


ルクソールの青い空に私たちが見たもの

そして、葬祭殿を出たとき、おもしろい出来事がありました。青空を見上げると、頭上はるかに高い場所で無数の鳥が舞っていたのです。私は、その鳥たちの姿に、ハヤブサの姿をした天空の神「ホルス」をすぐに連想していました。私や友人たちが空に見とれていると、ガイドが興奮した声で言いました。「長年ガイドをしているが、とても珍しい光景だ。誰かこの一行の仲に、ホルス神に縁のある者がいるのではないか?」友人たちは、一斉に私を指しました。たしかに私は、多種多様なエジプトの神のなかでもホルス神に最もひかれ、長い間ずっとあこがれてきたのです。たんなる偶然の出来事かもしれませんが、このときの出来事は私にとってエジプトとの魂の結びつきを、深く感じさせるものでした。そして、エジプトの王たちが成し遂げようとした世界の調和を、私も占いという活動を通じて追及していきたいという覚悟を新たにしたのでした。私は立ち去りがたい思いを強く感じながら、ルクソールの西岸を後にして、巨大神殿の待つ東岸へと向かいました。




ツタンカーメンの墓が盗掘を免れた理由とは?

エジプトの王様で日本で一番おなじみなのが、ツタンカーメン(紀元前1347年~1338年)。カイロのエジプト考古学博物館にある黄金のマスクはあまりにも有名で、さぞや権勢を誇った存在であったと思われがちだ。しかし、彼はファラオではあったものの、わずか18歳で亡くなったこともあり、権力は低かった。そのため、墓の規模も小さく、かなり内容が「地味」だったことで盗掘を免れたと言われている。それでも、1925年、英国人の素人考古学者ハワード・カーターが、王家の谷でツタンカーメンの墓を発見したときは、まばゆいばかりの黄金製品など3000点もの品々が出現。現在それらは、エジプト考古学博物館の2階の半分を占める。
ちなみに、墓を発掘シタカーターの周辺では、関係者が謎の死を遂げるなど悲劇が次々に起こり、「ファラオの呪い」とささやかれた。しかし、当のカーター自身は健康な人生を送り66歳で亡くなった。

ルクソール ルクソール ルクソール

ツタンカーメン王の墓の発掘当時の写真。この墓を発見したハワード・カーター(1枚目:左側)。
墓の内部には金製品を中心に多数の副葬品があった 。(墓の展示パネルより)




2006年4月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


カイロ(エジプト)


カイロ(エジプト)


カイロ



タロットによって、エジプトに導かれた私

長年、タロット占いをしてきた私にとって、エジプトは憧れの地であり、また、訪れなくてはならない国でもありました。というのも、タロットとエジプトには深いつながりがあるからです。

18世紀の後半、フランス人牧師アントニオ・クール・ド・ジェブランが、「タロットは、古代エジプトの神の教えを記したものである」という記述を残しました。ジェブランは、タロットの絵柄が、古代エジプト文明の神秘と叡智をシンボリックに表現しているものであるとしました。また、19世紀、イギリスの神秘主義者アレイスター・クローリーは、私も愛用するタロットの名作「トートのタロット」を制作しています。「トート」とは、トキの頭を持つエジプトの智恵の神のことです。そうしたことからタロットをエジプト起源であるとする説もあるほどです。


ギザの町並みの向こうに現れた異空間……

今回のエジプトの旅は、友人数名を誘ってのなごやかなものでした。しかし、私は心の中に密かに緊張感を抱いていましたピラミッドをはじめとする強烈な霊的スポットに立ち入るのですから、そこで感じるエネルギーは尋常なものではないはずです。そして、そのエネルギーは必ずしもプラスのものとは限りません。私はカイロに到着したその瞬間から、邪悪なものを寄付けないよう、一種のバリアを全身に張ったのです。

カイロ


カイロ滞在の2日目、念願のピラミッド訪問が叶いました。カイロ中心部からバスで三大ピラミッドがあるギザの町へ。40分ほどバスに揺られると、ビルが連なる町並みの向こうに突然、ピラミッドの頭が見えてきました。砂漠の真ん中にあるイメージが強いピラミッドですから、少々意外な気もしました。

カイロ


しかし、いざピラミッド全体が見える場所まで来ると、その偉容に言葉を失いました。「ここは、異空間である」――それが、最初に感じた印象でした。そこは、周囲とまったく違うエネルギーに満ちていて、淡いブルー、藍色、そしてそれらとは正反対の燃え立つような赤オーラを見ることが出来ました。私は、歩を進めるたびに大きくなる霊的エネルギーを感じながら、ピラミッドの入り口へ近づいていきました。

カイロ



ピラミッド内部で受けた1つのメッセージ

最大の大きさを誇るクフ王のピラミッドは、高さ約140m、底辺の1辺の長さ約230m。遠くからきれいな四角錐に見えたピラミッドも、近くで見れば、無数の長方形の石の集合体です。そのクフ王のピラミッドの内部に、かつて盗掘用にあけられた穴だった入口から入っていきました。

カイロ


ピラミッド内部の通路は狭く、息苦しさを覚えました。最初にたどりついた女王の間では、体が上下に引っ張られるような感覚を味わい、さらに大回廊を通ってたどり着いた玄室では、今度は突然一つのメッセージを感じました。「ここはクフ王の墓ではない」積み重なった石の奥のほうから聞こえてくる声は、確かにそう言っていました。そして私は、玄室の一方の壁の奥のほうに、強いパワー発生スポットがあるという感覚を持ちました。


驚きの啓示を受けた1つのメッセージ

実はピラミッド内で、私はもう一つのメッセージを受け取っていました。
それは、「4年以内に2度、この地を再訪しなさい」というもの。そのことを同行のエジプト人ガイドに話すと、彼女はびっくりしていました。というのも、ピラミッド周辺は4、5年のうちに一時的にクローズするという話があるとのこと。クローズの理由は聞きませんでしたが、その後、ピラミッドのそばにあるスフィンクスで、そのヒントになるような発見をしました。

カイロ


頭は人間、体はライオンというスフィンクスの近くまで来たとき、私は、またしても一つのメッセージを受け取りました。それはなんと、「地下に、ピラミッドと同じものがもう一つ埋まっている」というもの。にわかに信じられない啓示ですが、ひょっとしてそれは真実なのかもしれないと私は思いました。この一帯は、亡くなった人の魂を天に上げていくための強力なパワースポットであり、そのために地上と巨大なしくみが建造された……。私は、そんなふうにも想像しました。

カイロ


そして、スフィンクスの背後に回りこんだとき、私はあるものを見ました。いや、透視したと言ったほうがいいかも知れません。スフィンクスの足元に空洞が見え、数百メートル離れたメンカウラー王のピラミッドまで延びる一本の地下通路が見えたのです。それは、オレンジ色のまっすぐな道でした。ガイドにそれを告げると、彼女は「一ヶ月前に来た中国のお坊さんが同じ事を言っていましたよ!」と再びびっくり。
私は、4、5年のうちに一帯がクローズされてしまうのは、巨大な地下建造物の調査をするためなのではないか、と理解しました。


ピラミッドを造ったのはエジプト文明ではない!?

さて、私がクフ王のピラミッド内部で感じた、「ここはクフ王の墓ではない」というメッセージは何を意味するのでしょう?クフ王のピラミッドやスフィンクスはおよそ4500年前に建造されたとされています。しかし、それは本当なのでしょうか。

私は、エジプト文明とは別の、もっと古い文明の匂いをこの地で感じました。それは、たとえば「アトランティス文明」。1万2000年ほど前に大西洋にあった大陸に栄えたといわれる王国ですが、アトランティスは当時、破竹の勢いでヨーロッパやアジアに侵略をしていたとも言われています。この謎の古代文明が、ピラミッド建造など、エジプトの地に何らかの影響を及ぼしたことも、まったくないことではないと考えます。

カイロ






「なぜ?どのようにして?謎に満ちたピラミッド建造

カイロ

王の墓、日時計、天文台、大洪水に備えたタムカプセル…など、ピラミッド建築の目的には諸説があるが、どの説が正しいのかはわかっていない。しかし、亡くなった王の魂を天上へ送るための装置だったという、古代エジプトの来世観に基づく説は、有力なものとして考えられている。ピラミッドが初期には階段状だったことから見ても、「天への階段」説は真実なのかもしれない。

また、ピラミッドは、その建築法についても多くの謎につつまれている。東西南北を正確に割り出している測量技術、ピラミッドの基底部を水平にする技術、そして何より平均2.5トンもの石を268万個もどのように運び込み、積み上げていったのか…。現代の科学を持ってしても、これらはなかなか解明できていない。
「ピラミッドは宇宙人が造った」―。あまりに謎が深いために、そんな説明に落ち着くのもしかたがないのかもしれない。




2006年3月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


青の洞窟・カプリ島(イタリア)


青の洞窟・カプリ島(イタリア)


青の洞窟・カプリ島



神秘的な「青の洞窟」が待つ憧れのカプリ島へ

青の洞窟・カプリ島


ヨーロッパは、タロットや占星術にかかわりが深いこともあり、これまでたびたび訪れています。なかでもイタリアは、その歴史や文化のすばらしさに惹かれ、何度も足を運んでいます。北はフィレンツェ、ヴェネチア、南はナポリまで、いくつかの都市に行きましたが、それぞれの地域はとても個性豊か。ひとつとして同じ顔の都市がないのは、イタリアがかつて、いくつもの小国家に分かれて覇を競い合っていたためかもしれません。

青の洞窟・カプリ島


今回訪れたカプリ島は、イタリア南部、ナポリ沖合いに浮かぶ小さな島です。この島にある有名な「青の洞窟」を、私は一度自分の目で見たいと思っていました。
以前、ボンペイの古代遺跡を見学するためにナポリを訪れたことはありましたが、そのときは時間の関係でカプリ島に渡ることはできませんでした。今回、ついに訪問がかない、とてもうれしい気持ちでした。


セレブたちが滞在するバカンスの島、カプリ

ティレニア海に浮かぶカプリ島は、東京の千代田区の面積と同じくらいの小さな島。深い青緑色をたたえた海と、そこからそそり立つ断崖、そして島の緑……。風光明媚とは、まさにこの島のことを言うのではないかと私には感じられました。

青の洞窟・カプリ島


美しい風景と温暖な気候は、古代ローマ帝国の皇帝さえも魅了しました。紀元前1世紀、皇帝アウグストゥスは、この島全体を別荘地として購入。そのあとを継いだ皇帝ティベリウスは、この島に住みついて、半ば隠樓しながら政務を行ったといいます。

現在のカプリ島は、イタリア屈指の高級リゾート。各界の著名人がバカンスを楽しむ場所として知られ、高級ホテルやブティックも島の高台に軒を連ねています。私も例外ではなかったのですが、多くの日本人旅行者は、青の洞窟だけを見るとすぐに帰ってしまいます。しかし、多くのイタリア人セレブたちは、海上に浮かぶこの別天地で、日常を忘れて何日も過ごすそうです。なんともうらやましい話しですね。


エメラルドの海を背景に別荘地が広がる贅沢な風景

ナポリの港から水中翼船に乗った私と友人は、吸い込まれそうなエメラルドグリーンの海を一路カプリ島へ。穏やかな海から立ち上がるオーラも、また美しいエメラルドグリーンの色をしていました。その色に私は、霊感を得るきっかけともなった、18歳の時に突然浴びたエメラルド色のフラッシュを思い出しました。

40分ほどでカプリ島の玄関港、マリーナ・グランデに到着。そこにあふれる日差しの強さはナポリ異常のように感じられました。カプリ島にはアナカプリとカプリの2つの街がありますが、いずれも高台に開けているため、港近くからケーブルカーで街へ向います。カプリ地区に宿をとっていた私たちも、ケーブルカーに乗車。高度を上げるにつれて広がる、白亜の別荘群とヨットを浮かべた美しい海……。なんとも贅沢な風景でした。

青の洞窟・カプリ島


ケーブルカーを降りると、目の前の広場には、カフェのパラソルが並び、高級ブランドのショップが軒を連ねています。私たちも広場の一角にあるカフェで食事をしましたが、こうして島の中でいただく食事というのは珍しく、あらためて「遠くまで来たな」という思いがこみあげてきました。

青の洞窟・カプリ島



言葉を失うほどの感動体験、青の洞窟

快適なホテルで一夜を過ごした翌日、いよいよこの島のハイライトである青の洞窟へ。青の洞窟は、海に接した洞窟の内部が、光線の加減によって青白く浮かび上がる神秘的な空間。モーターボートで洞窟の近くまで行き、そこから手漕ぎボートに乗り換えて青の洞窟を往復します。一般のボートの漕ぎ手と交渉。いくらか多めにチップを払うことで話しがまとまると、すぐにボートに乗せてくれました。周辺の海にはすでに薄紫のオーラが漂い、これから体験する神秘体験への期待を高めてくれます。

波打ち際に半分隠れた青の洞窟の入口は狭く、くぐる際には頭を下げるほどでした。内部へ入った瞬間、私は息を飲み、言葉をなくしみあした。中には数十メートルの意外なまでに広い空間があり、そこに広がる海が青白く光っています。

青の洞窟・カプリ島


「なんて美しいんだろう!」私は心の中で叫びました。体は、まるで宇宙に浮かんでいるような不思議な感覚でした。ボートの漕ぎ手がオールをひとかきすると、小さな波がまるでダイヤモンドのようにきらめき、青の中へと消えていきます。
洞窟の中にいたのは、10分にも満たない短時間でしたが、その中で私は藍色や紫のやさしいオーラを感じ、不思議なまでに癒されていました。


世界中のどこにもない癒しのエネルギーに触れて

一度、この目で見たいと思っていた、青の洞窟。その内部に満ちるオーラのエネルギーは、これまでどこでも感じたことのないものでした。私が世界各地で感じて来たオーラには、愛、憎しみ、権威、敵意などさまざまなエネルギーがこもっていました。しばしばオーラの持つマイナスな気にうちのめされることもあり、そんなとき私は、過去の負の歴史が集積してきたエネルギーの大きさを思うのでした。

しかし、青の洞窟のオーラは、そうしたものとはまったく無縁の存在でした。そこにマイナスな気配は一切なく、かといって愛や好意といった人間臭い感情もありませんでした。洞窟は、ただただ神秘的に青く、静かに“癒し”のエネルギーを漂わせていたのです。おそらくこのことは、人の手が加わらず、純粋に自然の営みだけで洞窟がつくられたことによるのでしょう。

今回のカプリ島滞在は、とても短期間で、その島の魅力を100%体験するまでには至りませんでした。しかし、青の洞窟での神秘体験はかけがえのないものとなりました。またいつの日か、たっぷりと時間をかけてこの島の魅力に触れたい……そう強く思う私でした。




皇帝も童話作家もみせられた、青の洞窟

カプリ島の代名詞ともなっている、名称・青の洞窟。この神秘の洞窟は、古くから特別な場所としてとらえられていた。古代ローマ帝国の時代には、皇帝の個人的な浴場として使用されていたことが記録に残されている。洞窟に至る地下通路が確認されているが、その一部はふさがれており、かつては島のカタコンブ(地下墓所)につながっていたと考えられている。19世紀に著わされた、デンマークの童話作家・アンデルセンの出世作となった翔セル「即興詩人」は、この青の洞窟が重要な舞台となっている。

青の洞窟は波の浸食によって生まれた「海食洞」と呼ばれる洞窟である。カプリ島に散在する海食洞のうち、この青の洞窟がこれほどまでに幻想的、神秘的に光るのは、周囲の岩肌が白く、そこに絶妙な角度で太陽光線が入って反射するためである。見学の際は必ず午前中に行くことが条件。午前中は、太陽光線の角度が低く、屈折しやすいからである。時間帯でいえば、午前10時から12時がベスト。

青の洞窟へは、島内のアリーナ、グランデから専用観光船で洞窟近くまで行き、小舟に乗り換えるのが一般的だが、陸からもアプローチは可能。アナカプリから洞窟行きのバスに乗り、終点で下車。そこから崖づたいに降りていくと、小舟に乗ることができる。




2007年8月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


マグダラのマリアの洞窟(フランス)


マグダラのマリアの洞窟(フランス)


マグダラのマリアの洞窟



イエスをめぐるもう一人のマリア、マグダラのマリア

みなさんは、「マグダラのマリア」という名前を聞いたことがありますか?
イエス・キリストの生涯には二人のマリアが関わります。
一人は言うまでもなくイエスを処女受胎によって生んだ聖母マリア。
そしてもう一人が、マグダラのマリアなのです。

ヨーロッパ各地では、カトリック教会などを中心に聖母マリアを古くから讃えてきましたが、その一方で、マグダラのマリアも信仰の対象とされてきました。しかし、その信仰はきわめて少数派であり、限られた地方でのみに受け継がれています。というのも、伝統的にバティカンを頂上とするカトリック教会から、マグダラのマリア信仰は禁じられてきた経緯があるからです。「表のマリア」が聖母マリアだとすれば、「裏のマリア」とも呼ぶべき存在が、マグダラのマリアなのです。
一説によれば、マグダラのマリアはもともと娼婦だったとも言われています。しかし、イエスの導きによって自分の行いを悔い改めたとされます。その後、マリアはイエスに忠実に従い、その寵愛を一身に集めたため、ペテロら12人の信徒からはひどく嫉妬されることになったといいます。
ちなみに、初期のキリスト教会では、マグダラのマリアは信徒の中の筆頭としての扱いを受けていましたが、のちにカトリックは、マリアの存在を無視し、ペテロを第一人者としてあがめるようになりました。


カトリック教会を震撼させた衝撃の“事実”とは……?

マグダラのマリアの洞窟


絶えずイエスに同行していたマリアは、いよいよイエスが磔刑になるというとき、その姿を見届け、さらに復活したイエスに最初に出会ったとされます。後世、マリアが聖人として扱われるようになった理由も、そのあたりのいきさつにあります。
しかし、マグダラのマリアについての最も重要なエピソードは、そのようなことではありません。
実は「マリアがイエス・キリストの子供を産んだ」という“伝説”があるのです。もし、これが本当であれば、神が人間と交わって子をもうけたということになり、「イエスは神の子」とするカトリック教会の教えは否定され、その権威はもろくも崩れてしまうのです。

マグダラのマリアがイエスの子を身ごもった……。これが真実かどうかは、私にはなんとも言えません。しかし、カトリック教会から迫害されたキリスト教の異端の一派「カタリ派」が密かにマリアを信奉したこと、そして、そのカタリ派の教えが、タロット・カード(マルセイユ・タロット)の成立と深いかかわりがあることは、私に「マグダラのマリアの聖地を訪れたい」という強い気持ちを抱かせたのでした。
前回は、マリアの頭蓋骨だとされる遺物をまつる教会をご紹介しましたが、今回は、迫害の末に南仏にたどり着いたマリアが、隠れ住んだと言われるサント・ボーム山中の聖なる洞窟についてご案内しましょう。


マリアゆかりの聖なる洞窟で過ごした貴重なひととき

マグダラのマリアの洞窟


美しく晴れ上がった冬の日、私は今回、マルセイユ・タロットのワークショップに参加した一行とともに、サント・ボーム山の麓の町、サン・マクシマン・ラ・サント・ボームを出発し、徒歩で聖なる洞窟をめざしました。

マグダラのマリアの洞窟


マグダラのマリアの洞窟


雪の残る山道は険しく1時間におよぶ山道歩きは大変つらいものでした。ようやくのことでたどり着いた、岩山の中腹にある洞窟は、プロヴァンス最大の巡礼地らしく、神聖な雰囲気を漂わせていました。

マグダラのマリアの洞窟


洞窟内に足を踏み入れると、そこには薄紫、藍色、エメラルド・グリーンなど、ブルー系のオーラが満ちていました。そして、肩のあたりを後ろから引っぱられる感覚がし、金縛りにあったようにその場に動くことができませんでした。やがて、次のような闇からのメッセージが聞こえてきました。「ようこそ。真実の場所へ」―-それは、マリア自身の声だったのでしょうか、私には、その声がとても哀しみに彩られているように感じられました。

マグダラのマリアの洞窟


マグダラのマリアの洞窟


洞窟内には、祭壇やマリアの像などが祀られてあり、33年間ここで冥想の日々を送ったというマリアの極限の信仰生活をしのばせました。この洞窟で私は、重苦しいエネルギーを感じ続けていましたが、それはマグダラのマリアが背負った苦しみの大きさによるものだったのかもしれません。
キリストの子を身ごもったマリアは、つらい迫害を受けたといいます。そして、死後もなお、ローマ・カトリック教会によって差別を受けたのです。
サント・ボームの聖なる洞窟は、巡礼者が癒しを受ける場所ではなく、マリアの魂こそが癒しを必要としている場所なのだ……。
そんなことを考えながら、私は厳粛な気持ちで帰りの山道を下っていったのでした。


プロヴァンスで起きた、ある暗示的な出来事

今回のプロヴァンス訪問では、実は、ちょっとびっくりするようなエピローグがありました。マグダラのマリアの洞窟へ出かけた翌日、マルセイユを離れようとしたとき、私たちが使ったユーロ紙幣が、その頃フランスを騒がせていた「ニセ札」と疑われ、一行が現地の当局から取り調べを受けたのです。使った紙幣はれっきとした銀行で両替したものであり、結局、私たちの疑いは晴れ、無罪放免となりました。
びっくりするやら呆れるやら、という一件でしたが、私にとってはこの出来事が、マグダラのマリアが、自身の受けた苦難のごくごく一部を私に体験させたのではなかったのか……。そんなふうにも感じられたのでした。
そして、私はマリアの遺志が伝えられているとも考えられる道具――「タロット」を使いながら、彼女の思いを私なりに現代に伝えていかなければならない、と思ったのです。




「イエスの子」は、カトリック最大のスキャンダル
マグダラのマリアが迫害から逃れ、プロヴァンスに流れ着いたとき、「聖杯」(イエス・キリストの最後の晩餐で使われ、十字架にかけられたイエスの血を受けたとされる)を密かに持っていたと言われている。この聖杯を門外不出の“宝”としていたと言われるのが、異端の一派カタリ派であり、テンプル騎士団である。テンプル騎士団の母体となったシオン修道会は、フランク王朝メロヴィング家こそがイエスとマグダラのマリアの子孫であると主張し、その復権をもくろんだこともある。
もちろん、「神の子イエスの子」など認めるわけのないカトリック側は、この説を真っ向から否定し、マグダラのマリアの存在を聖書の中からできるだけ排除し、この“事実”を隠そうとしたのである。

マグダラのマリアは、本当にイエスの子を身ごもったのか?
子供がいたとすれば、その血脈は後世にどのように続いていったのか?
真相は闇の中であり、今なお多くの学者が事実を求めて研究を行っている。ちなみに、大ヒット小説「ダヴィンチ・コード」は、このあたりのエピソードを巧に取り込んだ傑作ミステリー。




2005年10月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


プロヴァンス(フランス)


プロヴァンス(フランス)


プロヴァンス



マルセイユ・タロットの本場を訪ねる南仏の旅

タロット占いをする身にとって、南仏のプロヴァンス地方は、とても魅力的な土地となっています。
地中海に臨むこの地は、有名な「マルセイユ・タロット」の本場であり、タロットの成立そのものとも大きな関わりがあるとされるところ。
私は一人のタロット・リーダー(占い師)として、この土地に、かねてから強い興味を持っていました。

プロヴァンス


今回は、2週間にわたってフランスに滞在しましたが、そのうちの1週間は、マルセイユにほど近いサン・マキシマンという町にある修道院を改装したホテル(Hotellerie du Couvent Royal)に宿泊。そこで開かれた、専門的なタロット講座に参加しながら、周辺の宗教的な場所に足を運び、タロットについてそのルーツを示すような事象をつぶさに見ていきました。現存する最古のタロットは、1392年に、ジャックマン・グランゴヌールが筆写したタロットで、パリ国立図書館に17枚残っています。その後、15世紀になると、イタリアで力量のある画家によって豪華なタロットが作成されるようになります。
マルセイユ・タロットも、15世紀には一般的に用いられ、しかもその絵柄は、はるか古代の秘教伝承に由来するものだと考えられています。今回、タロット講座では、フィリップ・カモワンが講座を勤めました。彼はマルセイユにあるタロット・メーカーの後継者であり、象徴に満ちた真のマルセイユ・タロットを「カモワン版」として復活させた当人です。

プロヴァンス


修道院ホテルで感じた、冷たいブルー系のオーラ

元修道院だったホテルは、旅行者のためにかなり手を加えてあるとはいえ、かつての修道僧たちの信仰の日々を物語るに充分な雰囲気をたたえていました。そこで私が感じたオーラは、薄紫や藍色といったやや冷たい色をしていました。2月ということで、古い建物の中には冷たい空気が漂っていましたが、修道僧たちの禁欲的で清貧な生活の歴史が、私に寒色系のオーラをイメージさせたのだと思いました。
さて、マルセイユ・タロットにこめられた古代の秘密の教えには、12世紀から13世紀にかけてこのプロヴァンスで栄えた、キリスト教の異端の一派「カタリ派」が関わっています。彼らにゆかりのある教会を訪れると、内部のいたるところに、タロットの絵柄のモチーフと共通するイメージが使われているのがわかります。
今回のタロット講座では、こうしたマルセイユ・タロットに込められた象徴について、あらためて深く学ぶことができました。


「ダヴィンチ・コード」にも描かれたマグダラのマリアの謎

プロヴァンス


マルセイユ・タロット成立に大きな影響を及ぼしたと見られる、このカタリ派の足跡を追っていると、浮かび上がってくるのが「マグダラのマリア」(聖母マリアとは異なる)の存在です。マグダラのマリアとは、イエス・キリストの処刑を見とどけ、復活したイエスにも最初に会った女性で、一説には娼婦だったとも言われています。
しかし、もっとも重要なことは、彼女が「イエス・キリストの子を身ごもり出産した」ということです。このあたりのエピソードは、大ヒットした小説「ダヴィンチ・コード」でも重要なモチーフとなっています。

彼女を信奉する者は、ヴァチカンを頂点とするカトリック教会から迫害された過去を持ちますが、その代表的な集団がカタリ派なのです。プロヴァンスの伝承によれば、彼女は迫害にあい、パレスチナから追放され、小舟で海を漂流した末に南仏プロヴァンスの海岸にたどり着きました。そして、サント・ボーム山中の洞窟にこもって祈りと瞑想の日々を送った末に亡くなり、その麓の町サン・マクシマンの、今日バリジカ聖堂のある場所に葬られました。
この聖堂には、いまも「マグダラのマリアの頭蓋骨」と称する遺物が金の装飾にかざられて大切に保存されており、毎年、祭りの日にはこの聖なる遺物が神輿にかつがれて町をパレードします。

プロヴァンス



マグダラのマリアゆかりの聖堂で受け取った闇からのメッセージ

マグダラのマリアの遺物を伝えるバジリカ聖堂は、泊まったホテルに隣接していました。ゴシック様式の建物の中に一歩入ると、強いオーラを体感!それは暗く、ひたすら「重い」ものでした。

沈黙が支配しているその空間で、私は闇からの明確なメッセージを聞きました。「ここには大切なものがある。それを解き放してはいけない」「ここにある秘密を、決して漏らしてはならない」大切なもの?秘密?第一に考えられるのが、マグダラのマリアの聖なる遺物です。しかし、私にはそれだけではないように思えました。かつてカタリ派が厳しい弾圧を受けても守り抜き、後世に伝えようとした何かが、この聖堂に隠されているのではと…。

プロヴァンス


聖堂内の随所に見られる彫刻や絵画の中には、タロット・カードの絵柄と共通するデザイン、あるいはカードそのものを連想させるデザインが見られました。カードの一枚一枚に暗示が込められているように、それらのシンボリックなデザインは、きっと何かの重要なメッセージを隠しているに違いありません。地下に降りると、マグダラのマリアの頭蓋骨だといわれる遺物が、まばゆいばかりの金の装飾に包まれて鎮座していました。異端として迫害を受けたとしても、精神的なよりどころとなる聖なる遺物があったからこそ、古代からの秘儀が連綿と守られ、同時にタロットも神秘的な力を身につけていったのだと思います。




悲劇の異端、カタリ派が残したもの
「カタリ派」は、11~13世紀にかけて南フランスや北イタリアに広がった、キリスト教の異端の一派。彼らは、南仏にゆかりの深いマグダラのマリアとイエスとの性的な関係を肯定していたこともあり、カトリック教会から厳しい弾圧を受けた。
1209年7月には、ローマ法王イノケンティウス3世の命で組織された十字軍が、南仏の町ベジェに侵攻し、カタリ派を含む住民を虐殺。このとき殺された住民は1万とも2万とも言われている。厳しい信仰生活の中、密かに教義を守り抜いたカタリ派。彼らが口伝として伝えてきた教えは、マルセイユ・タロットの絵柄の中にメッセージとして残されていると考えられている。




2005年9月「恋運歴」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


マルセイユ・タロット発祥の地(フランス)


マルセイユ・タロット発祥の地(フランス)


マルセイユ


プロローグ

皆さま、こんにちは。ステラ薫子です。私はこれまで、もう20年以上の間、タロット・カードを使って多くの人々のご相談にお応えし、お一人お一人に素晴らしい幸福をつかんでいただくお手伝いをして参りました。 そうして日々タロットと共に歩むことを運命づけられた者として、私はこの不思議なカードが、クライアントの運命を正確に透視したり、当人すら気づかなかった隠された問題点を指摘したり、あるいはクライアントやその周囲の人々の心の奥底の機微までをも鮮明に映し出したりする現場を、数え切れない程目撃してきました。

そんな体験を重ねるほどに、私はますますタロットの持つ神秘性に魅せられ、この不思議なカードは何故これほどの占断力を持っているのか、そしてこのカードはいつ、誰によって、そのルーツを知りたいという思いに駆られ、自分なりに研究を続けて参りました。そして私は、タロットのルーツを探求するからには、その生まれ故郷とされる南フランス、特にマルセイユを訪れ、実際にその地の空気を肌で感じたい、と思うようになりました。何と言っても、今タロットとして流通しているカードの元祖こそ、「マルセイユ・タロット」と呼ばれるいにしえのカードなのです。私は普段、アレイスター・クロウリーという魔術師の製作した「トートのタロット」を実占には用いておりますが、この「トートのタロット」もまた、「マルセイユ・タロット」をベースとしてデザインされたものなのです。

そんなとき、哲学博士の大沼忠弘先生から、「マルセイユを中心に、タロットに縁のある土地を探訪する旅に出掛けませんか」というお誘いを受けたのです。
大沼先生はずっと古くからギリシャ哲学をご専門に研究されていて、そこから新プラトン主義、グノーシス、カバラ……と、西洋神秘思想の裏の裏まで蘊奥を究められ、権威ある百科辞典の執筆までなさっているという、日本に於ける隠秘哲学研究家の第一人者です。タロットのルーツを探るたびのパートナーとして、これほど頼もしい方は考えられません。

それともう一人、マルセイユで私たちを迎えてくださる、フィリップ・カモワンさん。彼はもう何百年も昔から、このマルセイユ・タロットを作り続けてきた家系の末裔なのです。つまり彼は、古代から連綿と続く本物のマルセイユ・タロットの秘法を、一子相伝で受け継いできた方。おそらく、世界で最もタロットを知り尽くしている方でしょう。当然、彼の家には、先祖代々伝わるタロットの版木や、古いタロットの実物など、他では決して目にすることのできない珍しいものが大切に保管されているそう。それを拝見するのも、今回の旅の大きな楽しみです。

マルセイユ


タロットカードの源流ともいわれるマルセイユ・タロット発祥の地

いざフランスへ!


こうして2001年夏、私は溢れんばかりの期待に胸を弾ませながら、エールフランスの機上の人となったのでした。
……とは言っても、フランスは地球のほぼ裏側。パリまでノンストップ、14時間の空の旅です。さらにパリでトランジットして、目指すは南仏、マルセイユです。
成田を発ったのが、夜の10時。さすがエールフランス、機内食はこれから私たちが向う、フランスの郷土料理が提供されます。そして食事の後は、これからの旅行に思いを馳せつつ、しっかり熟睡です。
そんなこんなで、ようやくマルセイユ到着。マルセイユの空港は、思ったよりもこじんまりしていて、日本の地方の空港のようでした。そしてさすがは南仏、さんさんと降り注ぐ明るい日射しが……と思いきや、何と到着初日はいきなりの雨に迎えられてしまいました。この季節にこんな天候、この辺りでは本当に珍しいんですって。たぶん、私たちの到着を祝って、神様が浄化の雨を降らせてくださったのでしょう。と思うことにします。
では、いざ出発!といきたいところなのですが、まずは腹ごしらえを。だってここはフランスなんですもの。


本場のフランス料理で腹ごしらえ

マルセイユ


さて、到着第一日目、最初のランチは、海辺のカジュアルなレストランで、地中海料理をいただきます。長旅に疲れ果てた私、心はもう食事のことで一杯。混んだ店内をかき分け、とりあえず席に着きます
ところが、それからが大変でした。オーダーを取りに来るまでの長いこと。多分20分くらいは待たされたと思いますが、お腹の空ききっている私にとっては、もう永遠のように感じられました。確かに店内はお客さんも多く、忙しいのは解るけれど、いくら何でも……。でも追々解っていくのですが、これが南仏流の時間の使い方なのです。
結局、食事を終えるまでに2時間半は掛かったとおもいます。こちらでは、一事が万事この調子。でも、さすがに料理の味は絶品。これから2週間のタロットのルーツを探る旅に思いを馳せ期待に胸を弾ませながらお腹を満たします。

マルセイユ


食事も終えて、私たちが最初に向った先は、マルセイユの旧港南岸にあるサン・ヴィクトール教会。この教会について、詳しいことはコラムを参照していただきたいのですが、何でもすごく古い教会とのこと。タロットのもとになる教えをこの地にもたらしたのは、この教会と深い縁のある人々なのです。
でもこの教会、その一番古い部分は地下墳墓なのですが、霊感の強い私は、そこへ入った瞬間にどーんと重たい空気を感じてしまいました。そうなるともうダメで、カモワンさんの説明を最後まで聞くことができず、一人で先に外へ出てしまいました。
この日は天気が悪く、この教会に入る前はどんよりと曇っていたのですが、出てきたらカラリと晴れて、マルセイユの港が一望できました。その日の夜の食事は、カモワンさんが予約してくださった、海辺の素敵なレストラン。海に沈む夕日を眺めながら、本当においしい魚介料理をいただきました。


カタリ派の足跡を辿って

さてその翌日のことです。皆さまは、「カタリ派」と呼ばれる人々をご存知ですか?一般にはキリスト教の「異端」と言われていますけれど、昔は北イタリアから南フランス、そしてピレネーを越えてスペインまで、この「異端」のキリスト教が栄えていたのです。いわば、このあたりの土着のキリスト教と言って良いのかしら。このカタリ派の人たちが、タロットととても深いつながりを持っていると言われています。そんなわけで、今日から何ヶ所か、そのカタリ派にゆかりのある場所を巡ることになりました。

マルセイユ


最初にやってきたのが、ミネルヴです。ごらんのように、絵に描かれたように美しい場所!中世の城塞都市がそのまま残っていて、昔々の時代にワープしてしまったように感じました。本当にリラックスできる良いところです。そこで、手作りのワイン屋さんを発見しました。昔の酒蔵を改造したのかしら、とても質素なのですが、それでいて隅々まで神経が行き届いていて、たいへん気品のあるたたずまい。一目見て気に入ってしいまいました。また、そこで売っていたワインのおいしいこと!そこのおじいさんが、裏畑で取れたブドウをそのままワインにしていらっしゃるそうです。素朴で野趣溢れる、と同時に、とてもキュートで初々しい味わいです。もう、みんな大喜びで買い込んでいました。一緒にいた某氏などは、試飲だけでは飽き足らず、その場で一瓶あけてしまったほどでした。

マルセイユ



タロットとギルド

それから私たちは、モワサック、トゥールーズと、カタリ派の足跡を辿りました。そこで驚いたのが、タロット図像というものが、実にさまざまな教会建築、彫刻、絵画などに見られるイメージを引用しているということです。

マルセイユ 宇宙のタロット

マルセイユ 力のタロット

マルセイユ 塔のタロット


これはいったい、どういうことなのでしょうか。詳しいお話しをするととても長くなってしまうのですけれど、昔のヨーロッパの建築家、彫刻家、画家などは、「ギルド」と呼ばれる同業者組合と、厳しい徒弟制度の中で仕事をしていました。当然、その技術やデザインに込められた象徴などは、ギルドの仲間以外には漏らしてはならない絶対の秘密だったのです。そんなわけで、ギルドは単なる同業者の寄り合いというものではなく、むしろ秘密結社のようなものになっていたのです。

秘密結社と言えば「フリーメーソン」が有名ですが、その「フリーメーソン」も、元来は石工(メーソン)たちのギルドから発達したそうです。また、彼らの間には、エジプトのピラミッドや、イスラエルのソロモン神殿を築いた古代の叡智が、密かに伝承されていた、とも言われています。昔のマルセイユ・タロットは全て木版画であったことを考えると、タロットと教会建築に見られる図像イメージが共通しているのは、むしろ当然と言えるでしょう。


カタリ派終焉の地

マルセイユ



さて、カタリ派と言えばここを外すわけにはいかない、という大沼先生のご提案で、私たちはモンセギュール城を見に行くことになりました。ここはカタリ派の人たちが最後まで立て籠もって抵抗を続け、最後には500人の人々が皆殺しにされてしまったという、峻険な山上の要塞です。
写真をごらんいただくと、空は明るいのですが、実はもう既に夜の8時。私はただお城を眺めるだけかと思っていたら、何と上まで登ろうということになり、時ならぬ登山大会になってしまいました。上に行くほど道が狭くなり、とても大変でしたが、何とか頂上の城まで辿り着くことができました。

山上はとても狭く、また少しでも足を踏み外すとたちまち崖下に落ちてしまう切り立った崖です。そこで私は、カタリ派の人たちが、こんなところに籠もって戦ってまで守りぬこうとした、尊い教えがあったのだと、深い感慨に打たれました。そこはとても悲しげなエネルギーが感じられ、カタリ派の人達が口伝として伝えてきたその尊い教えのメッセージを、カードという形で残してくれたのだ、という気がしたのです。タロットを手にして20数年、私は私なりにずっとこのカードの謎を研究してきましたが、それがこの山を登ったときに初めて体得できたのだと思います。多くの人々の思い、そして高い次元の意識からのメッセージがこのカードには込められているのです。


エピローグ

マルセイユ



下山の途中に、カタリ派の石碑の前で、大沼先生が神道の祝詞をあげ、参加者全員で供養しました。すると、そこにいた魂たちがとても鎮まって、喜んでくれているような感じがしたのです。これはタロットをやる者にとってはとても大きな意味のある、まさに今回の旅のメインイベントであると感じられました。
今回の旅で明らかになたことは、タロットの持つ神秘の、ほんの氷山の一角に過ぎないでしょう。しかし、その背景にあった人々の思い、境遇の一端に触れたことで、私はまた一歩、確実にタロットの世界に踏み込むことができたと信じずにはいられないのです。




マルセイユ


サン・ヴィクトール教会
マルセイユは紀元前6世紀に創建されたギリシャの植民都市を起源とする、フランスの最古の都市である。西地中海要衝と言える場所に位置し、天然の良港に恵まれていたため、ギリシア、ローマ、エジプト、オリエント等、地中海世界一円の交易の拠点として栄えた。そのため、マルセイユには古くから、古代地中海世界の密儀の伝統が根付いていた。

このマルセイユ、ひいては南フランスの霊的中枢であったサン・ヴィクトール教会は古くは岩の岩盤に掘りこまれた採石場であり、3世紀から共同墓地として使用されていた。今日も現存する同教会の地下納骨堂はこの当時のもので、ローマ殉教者聖ヴィクトールの墓も、この墓室群の中に作られていた。そして西暦415年頃、修道士聖ヨハネンネス・カシアヌス(360頃~435)が、この共同墓地の上に修道院を建てたのである。

このカシアヌスは、アレクサンドリアのオリゲネスの法統を受け継ぐ人物だ。オリゲネスは「神学の父」と称せられるキリスト教世界最初にして最大の学哲でありながら、一方ではグノーシス的であるという理由で二度の異端宣告を受けている。そして彼は、ギリシア世界のみならず、エジプトの秘教体系についても深い学識を有していた。
このオリゲネスの後継者であるカシアヌスは、マルセイユにエジプトの秘教伝承を導入したと見て良いであろう。彼は極めて清廉潔白な修道士で、そのため、彼の霊統を受け継いだマルセイユの聖職者たちは、全ヨーロッパで最も廉潔との評判をとっていた。

3世紀のものとされる地下納骨堂の石棺、および壁面装飾には、マルセイユ・タロットと共通するモチーフが数多く用いられている。またそれら石棺の浮彫の中にはカシアヌスら初期の修道僧たちが、カードのようなものを手に説教をしている図像が見られる。(※ページ最上部の写真)おそらく彼らは、文字を知らない民衆への布教手段として、古代から伝えられる教義を象徴的な「絵」にして表現したものを用いていたのであろう。それらの「絵」に描かれていた図像が如何なるものであったのかは、今となっては知るよしもないが、納骨堂内の装飾にマルセイユ・タロットと共通するモチーフが見られる以上、彼らの用いていた絵の札が、マルセイユ・タロットの原型のひとつであったことは想像に難くない。
また、この教会の地下墓地に安置あれている黒いマリア像は、一般的な聖母マリアではなく、後述するマグダラのマリアである。


ミネルヴとカタリ派の悲劇
「カタリ派」という語は、「清浄」を意味するギリシア語に由来する。彼らは東方のマニ教や、グノーシス主義などの影響を強く受けたキリスト教で、正統派からは「異端」の烙印を押されている。一説によれば、イエス・キリストの最愛の弟子にして妻であったマグダラのマリアが南フランスに漂着し、この地に真のイエスの教えを広め、またその血脈を保った。カタリ派は、このマグダラのマリアの霊統を受け継いでいるという。
カタリ派は3世紀から13世紀までの間、南フランスを中心に大いに教勢を誇ったが、1209年に開始されたアルビジョワ十字軍によって、ほとんど殱滅されてしまう。カタリ派の代表的な都市であるミネルヴも、その例外ではなかった。

ミネルヴは自然の要塞とも言うべき地形に位置し、二重の壁と岩棚に守られた難攻不落の都市であった。1210年、アルビジョワ十字軍を率いるシモン・ド・モンフォールは、巨大な投石機を以ってこの村を攻めた。彼はこの投石機によって、村の唯一の水源である。サン・リュスティクの井戸を破壊したのである。ミネルヴの住民は降伏し、カタリ派の信仰を捨てることで命を助けられたが、「完徳者」と呼ばれる140人の出家信者たちは頑としてこれを拒み、そのために全員が生きたまま火あぶりにされた。完徳者に対する火あぶりはこの十字軍においてこれが最初であったが、その後34年にわたって幾度となく繰り返されることとなった。その締めくくりが行われたのが、カタリ派終焉の地、モンセギュール城である。


古代の密儀文化、建築技術とタロット
よく知られているように、古代エジプトのピラミッドには、至る所に数の原理と黄金分割が隠されている。ここに明らかなように、古代の建築師団は、完璧な神聖幾何学に基づいて、建築物の設計・施行を行っていた。そしてその建築物に秘められた真の意味は、その象徴を知る者にしか理解できないように、密儀として代々口伝されたのである。

この古代エジプトの密儀の文化は、早くから地中海世界に伝播していた。有名な巨大図書館を擁していたローマ時代のアレクサンドリアは、そのような古代文明の叡智が集積された一大文化中枢であった。世界各地からこの地に参集した賢者たちはこの地で活発な交流を行い、それによってさまざまな文化の混淆と融合が行われた。ヘルメス学、新プラトン主義、グノーシス主義などの多様な隠密哲学が、こうして生まれていったのである。

この図書館は後にキリスト教会によって完膚無きまでに破壊され、ここに古代密儀の命脈は絶たれてしまうのだが、実はこれらの古代の叡智のエッセンスを、書物ではなく建築物という形で保存していた集団が存在したのである。神殿建築の専門家である「ローマ建築師団」がそれだ。彼らは後にキリスト教の教会の建築をも請け負うことになるが、その際、その設計や装飾の中に、自らの受け継いだ象徴体系を織り込んだのである。
マルセイユ・タロットを研究していくと、このカードの中に彼ら建築師団の神聖幾何学の秘密が封じ込められていることが解る。すなわち、一見、何の法則性もないデタラメな絵の寄せ集めに見えるこれらの札は、実際には神殿建築に頻出する古代の異教のモチーフを持ち、かつ、厳密な幾何学的構図に則って制作されているのだ。

一例を挙げるなら、各カードの縦横の比率は正確に2:1となっているが、これは二つの正方形を積み重ねた形であり、神の祭壇を意味している。そして全てのカードの図像が、この長方形の枠の中に三つの円と二つの正三角形、そして二つの五芒星形を巧に配置した構図の中にはめ込まれているのだ。このように見ていくと、改めてタロットに込められた叡智の深さ、その構成の巧さには驚嘆させられる。そのようなことから、カモワン氏と親しいタロット研究家のアラン・ブージュレアル氏は、マルセイユ・タロットの起源をクフ王の大ピラミッドを建造した建築師団に求めているのである。


フィリップ・カモワン氏とカモワン版マルセイユ・タロット
今回の旅行に全面的にご協力いただいたフィリップ・カモワン氏は、現存する全てのマルセイユ・タロットのスタンダードとなった1720年の「コンヴェル版マルセイユ・タロット」を製作したニコラ・コンヴェルの直系の子孫である。彼の家系に伝わるマルセイユのカード職人ギルドの伝承によれば、マルセイユ・タロットは既に15世紀には一般に用いられており、しかも図像は遥か古代の秘教伝承に由来するものであるという。

現在流布しているマルセイユ・タロットは、いずれも「コンヴェル版」を模倣して作られたものだが、長い年月の間に細部が省略され、本来の重要なシンボリズムは失われてしまっている。
そこで、カモワン氏は、自宅に保管されていたコンヴェル版の版木や、口伝として伝えられた秘儀を元に、コンピューターを駆使し、5年にわたる苦心惨憺の末に、古代のシンボリズムを余すこところ無く再現した「真のマルセイユ・タロット」を復刻することに成功した。それが「カモワン版マルセイユ・タロット」である。タロットの歴史におけるその重要性は、文字通リ計り知れないものがあると言えよう。

マルセイユ
↑カモワンさんのご先祖、ニコラ・コンヴェルの製作した
マルセイユ・タロットのオリジナル版(1760年)

マルセイユ
↑カモワンさんの家に秘蔵されている、古い時代のカードの
版木(銅で作られています)。これは遊戯用のカードで、
マークが通常のトランプと同一になっています。
国宝級の価値がある文化遺産です。





2002年2月「恋運歴」増刊号(イーストプレス)『オーラ紀行』