マグダラのマリアの洞窟(フランス)


マグダラのマリアの洞窟



イエスをめぐるもう一人のマリア、マグダラのマリア

みなさんは、「マグダラのマリア」という名前を聞いたことがありますか?
イエス・キリストの生涯には二人のマリアが関わります。
一人は言うまでもなくイエスを処女受胎によって生んだ聖母マリア。
そしてもう一人が、マグダラのマリアなのです。

ヨーロッパ各地では、カトリック教会などを中心に聖母マリアを古くから讃えてきましたが、その一方で、マグダラのマリアも信仰の対象とされてきました。しかし、その信仰はきわめて少数派であり、限られた地方でのみに受け継がれています。というのも、伝統的にバティカンを頂上とするカトリック教会から、マグダラのマリア信仰は禁じられてきた経緯があるからです。「表のマリア」が聖母マリアだとすれば、「裏のマリア」とも呼ぶべき存在が、マグダラのマリアなのです。
一説によれば、マグダラのマリアはもともと娼婦だったとも言われています。しかし、イエスの導きによって自分の行いを悔い改めたとされます。その後、マリアはイエスに忠実に従い、その寵愛を一身に集めたため、ペテロら12人の信徒からはひどく嫉妬されることになったといいます。
ちなみに、初期のキリスト教会では、マグダラのマリアは信徒の中の筆頭としての扱いを受けていましたが、のちにカトリックは、マリアの存在を無視し、ペテロを第一人者としてあがめるようになりました。


カトリック教会を震撼させた衝撃の“事実”とは……?

マグダラのマリアの洞窟


絶えずイエスに同行していたマリアは、いよいよイエスが磔刑になるというとき、その姿を見届け、さらに復活したイエスに最初に出会ったとされます。後世、マリアが聖人として扱われるようになった理由も、そのあたりのいきさつにあります。
しかし、マグダラのマリアについての最も重要なエピソードは、そのようなことではありません。
実は「マリアがイエス・キリストの子供を産んだ」という“伝説”があるのです。もし、これが本当であれば、神が人間と交わって子をもうけたということになり、「イエスは神の子」とするカトリック教会の教えは否定され、その権威はもろくも崩れてしまうのです。

マグダラのマリアがイエスの子を身ごもった……。これが真実かどうかは、私にはなんとも言えません。しかし、カトリック教会から迫害されたキリスト教の異端の一派「カタリ派」が密かにマリアを信奉したこと、そして、そのカタリ派の教えが、タロット・カード(マルセイユ・タロット)の成立と深いかかわりがあることは、私に「マグダラのマリアの聖地を訪れたい」という強い気持ちを抱かせたのでした。
前回は、マリアの頭蓋骨だとされる遺物をまつる教会をご紹介しましたが、今回は、迫害の末に南仏にたどり着いたマリアが、隠れ住んだと言われるサント・ボーム山中の聖なる洞窟についてご案内しましょう。


マリアゆかりの聖なる洞窟で過ごした貴重なひととき

マグダラのマリアの洞窟


美しく晴れ上がった冬の日、私は今回、マルセイユ・タロットのワークショップに参加した一行とともに、サント・ボーム山の麓の町、サン・マクシマン・ラ・サント・ボームを出発し、徒歩で聖なる洞窟をめざしました。

マグダラのマリアの洞窟


マグダラのマリアの洞窟


雪の残る山道は険しく1時間におよぶ山道歩きは大変つらいものでした。ようやくのことでたどり着いた、岩山の中腹にある洞窟は、プロヴァンス最大の巡礼地らしく、神聖な雰囲気を漂わせていました。

マグダラのマリアの洞窟


洞窟内に足を踏み入れると、そこには薄紫、藍色、エメラルド・グリーンなど、ブルー系のオーラが満ちていました。そして、肩のあたりを後ろから引っぱられる感覚がし、金縛りにあったようにその場に動くことができませんでした。やがて、次のような闇からのメッセージが聞こえてきました。「ようこそ。真実の場所へ」―-それは、マリア自身の声だったのでしょうか、私には、その声がとても哀しみに彩られているように感じられました。

マグダラのマリアの洞窟


マグダラのマリアの洞窟


洞窟内には、祭壇やマリアの像などが祀られてあり、33年間ここで冥想の日々を送ったというマリアの極限の信仰生活をしのばせました。この洞窟で私は、重苦しいエネルギーを感じ続けていましたが、それはマグダラのマリアが背負った苦しみの大きさによるものだったのかもしれません。
キリストの子を身ごもったマリアは、つらい迫害を受けたといいます。そして、死後もなお、ローマ・カトリック教会によって差別を受けたのです。
サント・ボームの聖なる洞窟は、巡礼者が癒しを受ける場所ではなく、マリアの魂こそが癒しを必要としている場所なのだ……。
そんなことを考えながら、私は厳粛な気持ちで帰りの山道を下っていったのでした。


プロヴァンスで起きた、ある暗示的な出来事

今回のプロヴァンス訪問では、実は、ちょっとびっくりするようなエピローグがありました。マグダラのマリアの洞窟へ出かけた翌日、マルセイユを離れようとしたとき、私たちが使ったユーロ紙幣が、その頃フランスを騒がせていた「ニセ札」と疑われ、一行が現地の当局から取り調べを受けたのです。使った紙幣はれっきとした銀行で両替したものであり、結局、私たちの疑いは晴れ、無罪放免となりました。
びっくりするやら呆れるやら、という一件でしたが、私にとってはこの出来事が、マグダラのマリアが、自身の受けた苦難のごくごく一部を私に体験させたのではなかったのか……。そんなふうにも感じられたのでした。
そして、私はマリアの遺志が伝えられているとも考えられる道具――「タロット」を使いながら、彼女の思いを私なりに現代に伝えていかなければならない、と思ったのです。




「イエスの子」は、カトリック最大のスキャンダル
マグダラのマリアが迫害から逃れ、プロヴァンスに流れ着いたとき、「聖杯」(イエス・キリストの最後の晩餐で使われ、十字架にかけられたイエスの血を受けたとされる)を密かに持っていたと言われている。この聖杯を門外不出の“宝”としていたと言われるのが、異端の一派カタリ派であり、テンプル騎士団である。テンプル騎士団の母体となったシオン修道会は、フランク王朝メロヴィング家こそがイエスとマグダラのマリアの子孫であると主張し、その復権をもくろんだこともある。
もちろん、「神の子イエスの子」など認めるわけのないカトリック側は、この説を真っ向から否定し、マグダラのマリアの存在を聖書の中からできるだけ排除し、この“事実”を隠そうとしたのである。

マグダラのマリアは、本当にイエスの子を身ごもったのか?
子供がいたとすれば、その血脈は後世にどのように続いていったのか?
真相は闇の中であり、今なお多くの学者が事実を求めて研究を行っている。ちなみに、大ヒット小説「ダヴィンチ・コード」は、このあたりのエピソードを巧に取り込んだ傑作ミステリー。




2005年10月「恋運暦」(イーストプレス)『オーラ紀行』         


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